慶長通宝
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慶長通宝(けいちょうつうほう)は、慶長11年(1606年)に江戸幕府によって発行された銅銭(異説もある)。日本では平安時代の皇朝十二銭以来久しく途絶えていた中央政府による鋳造貨幣である。
銭容は大きく分けて2系統がある。一つは大形で文字も整った比較的良質なものであり、もう一つは小型で質も劣悪であり永楽通宝から変造した鋳型を用いたと思われる私鋳銭である。前者は主に江戸や京都周辺で用いられ、後者は主として九州方面にて用いられている。
当時の鋳造記録が殆ど無く、江戸幕府による鋳造を否定する説もある。だが、慶長13年(1608年)に永楽通宝の使用を禁ずる法令が幕府から出されている事から、永楽通宝に代わる然るべき銅銭が存在したと考えるのが妥当である事、翌年に金1両=銀50匁=永楽通宝1貫文=「京銭」4貫文の交換比率が定められている事から、この「京銭」が慶長通宝に当たるのではと考えられている(これについても、鐚銭の事とする説もある)。
だが、当時の江戸幕府は成立したばかりであり、国内最大の経済都市である堺・大坂を幕府と敵対する豊臣氏が支配していた事や全国経済の把握が進んでいなかった事、更に悪質な私鋳銭も出回ったこともあって、全国的な流通には至らなかったものと考えられている。
江戸幕府が全国的な貨幣統一を確立するのは豊臣氏が滅亡してその全国支配が確立した後に発行された寛永通宝の発行まで待つ事になる。