成キョウ
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成蟜(せいきょう、生年不詳 - (始皇8年)紀元前239年)は、史記の秦本紀では秦の公子で、始皇帝の異母弟とされるが、年齢的に疑わしい点も多い。姓は嬴(えい)。
史書によると、彼が在命した時の始皇帝は当時は秦王政の時代で、政自身もまだ20歳前後の青年であった。となると、既に長安君に封じられ、自分の軍隊の統率権を持っている成蟜公子の年齢的を考慮すると、彼は始皇帝の異母弟というのは年代的につり合わない所がある。要するに成蟜は始皇帝の亡父である荘襄王の同腹か異腹の弟と考えるのが自然であろうと思われる。わかり易く述べると、彼は始皇帝の異母弟ではなく叔父に当たるということであろう。
史記によると、長安君・成蟜は呂不韋の専制政治に不満を持ち、まだ若い秦王政では秦を支えきれないと判断した公子成蟜は紀元前239年についに謀反を起こした。だが呂不韋は、既に成蟜の謀反を予想し、若き政と謀って、討伐軍を出して成蟜の軍勢を壊滅し、成蟜は捕虜となった。成蟜は自分の家族と共に残酷な極刑を受けて無惨な最期を遂げ、その財産も全て没収されたという。