長安
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長安(ちょうあん)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安にあたる。
もともとこの地は西周の都豊京(ほうけい)、鎬京(こうけい)が、西郊には秦の都咸陽(かんよう)が建てられていた。
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[編集] 前漢~北周
秦滅亡後の戦乱を制して漢を建てた劉邦は、破壊された咸陽の郊外に新たに首都を建設し、長安と名付けた。漢の建てた長安はいびつな形をしていたが、前漢、新、前趙、前秦、後秦、西魏、北周の時代に首都がおかれた。
[編集] 隋・唐
北周を滅ぼした隋の文帝(楊堅)は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外・龍首原に新たな首都を建造した。新たな都城造営の設計プランを担当したのは、宇文愷(555年 - 602年)である。はじめ大興城(だいこうじょう)と呼ばれたこの都市が、隋と唐の首都・国際都市として有名な長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市からなる条坊都市であった。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、その門は夜間になると閉じられ坊外の通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市プランを考えたとされる。つまり、天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に致命的な弱点も抱えていた。それは食糧問題である。狭い関中地域のみでこの膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)事でしか解決策を見出せなかった。だが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河そのものの管理が次第と困難となり、大運河が通行不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展し、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移されると長安が再び都になることは無かったのである。
[編集] 五代以降
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明の時代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐の時代には食料等の搬入の面で致命的な弱点を露呈させていた長安が都に返り咲く余地は無く、名を西安(せいあん)と改められた。(現在の西安については西安の項目を参照のこと)
[編集] 周辺民族への影響
長安城は周辺諸民族のあこがれの的だった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は平城京、平安京にも見受けられる。嵯峨天皇は平安京の西を長安、東を洛陽と名付けたが、時代が降るに連れて右京が衰え左京が発展したため、「長安」の名が消え、代わりに「洛陽」と呼ぶようになった(「洛中洛外」「洛南」など)。ただし平安京を初めとする日本の都市には城壁がない。大陸とは違い騎馬民族の侵攻が無く、城壁は日本の都市には必要無かったためである。(但し、豊臣秀吉は京都にお土居を築いている)。
[編集] 唐の長安城をモデルにした都市
[編集] 日本
[編集] その他
[編集] 参考文献
- 『長安の春』石田幹之助著(講談社, 1979年)(講談社学術文庫;403) ISBN 4061584030
- 『唐両京城坊攷:長安と洛陽』(清)徐松撰;愛宕元訳註(平凡社, 1994年)(東洋文庫;577) ISBN 4582805779
- 『長安の都市計画』妹尾達彦著(講談社, 2001年)(講談社選書メチエ;223) ISBN 4062582236