成田空港管制塔占拠事件
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成田空港管制塔占拠事件(なりたくうこうかんせいとうせんきょじけん)- 成田空港反対派は「管制塔占拠闘争」と称している - とは、成田空港の開港を四日後に迎えた1978年3月26日に起きた、空港反対派農民を支援する新左翼党派によるゲリラおよび実力闘争を指す。この闘争によって、成田空港の開港は、二ヶ月遅れることになる。
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[編集] 事件の経緯
1977年に、福田赳夫内閣は、成田空港の年度内開港を打ち出し、それに対して新左翼党派・日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)(第四インター)は、「空港包囲・突入・占拠」による開港実力阻止の方針を固めるとともに「福田政府打倒」をスローガンに掲げ、政府への対決姿勢を示した。
第四インターは、大衆組織「三里塚を闘う青年学生共闘」を結成し、「78年3月30日開港阻止」を見据えて77年5月6日の「妨害鉄塔撤去」に抗議した5月8日の実力闘争(ノンセクトの支援者だった東山薫が機動隊のガス弾を頭部に受け死亡)や、翌年2月の横堀地区に航空妨害を目的に一億円をかけて建設した「横堀要塞」における篭城戦の前面に立っていく。
第四インターの三里塚現地闘争団の指導的幹部の一人だった和多田粂夫は、空港各所でのゲリラと空港内突入と連動して、地下道から空港管理棟そして管制塔へと突入する作戦を立案する。第四インターが立案したこの作戦に、共産主義者同盟戦旗派(荒派)と共産主義労働者党は、呼びかけにこたえ、三派共同の行動として空港突入闘争が準備された(この三派はヘルメットが共に赤色だったため、赤ヘル三派とよばれる)。
3月25日、前田道彦をリーダーとする行動隊が排水溝から、空港内への潜入を図る。当初はベトナム戦争時のテト攻勢になぞらえて22人編成の行動隊だったが、排水溝に入る際に7人が機動隊に捕捉され潜入に失敗する。排水溝から空港内に潜入した十五人は、翌日午後1時を期して地上に突入するべく地下道で夜を過ごす。
3月26日、旧菱田小学校跡地にて、三派を中心とする「空港突入総決起集会」が開催された。おなじ日に空港反対同盟主催の集会が三里塚第一公園で予定されていたことから、「分裂集会」という批判が他の新左翼党派などから寄せられたが、三里塚・芝山連合空港反対同盟委員長の戸村一作は批判をはねのけて、この「空港突入総決起集会」で発言する。四千人ほどの参加者は集会後ただちに空港に向けて進撃する。また、前日からふたたび「横堀要塞」に立て篭もって、機動隊との攻防を開始する部隊もあった(空港反対同盟幹部の石井武、北原紘治、秋葉哲らも支援者とともに立て篭もった)。和多田の作戦は、機動隊の主力を「要塞戦」などに分散させ、その隙を突いて管制塔を占拠するというものだった。機動隊は全国から動員した一万四千人の警備体制を敷いていたが、和多田の作戦は結果として成功を収めることになる。
トラックを先頭にした大部隊が空港内への突入に成功した頃、地下の15人の部隊が地上に現れた。行動隊の一人だった平田誠剛の回想によると、十五人の赤いヘルメットの部隊がマンホールから空港構内に現れてしばらくして、数人の警官に発見され「(空港構内から)出ろ!出ろ!」と拳銃を向けられる。そのすぐ後方を、大部隊の空港突入に対処すべく急派しているとおぼしき機動隊の部隊が走って来たが、拳銃を向けた警官は後方の機動隊の部隊に気づかず、機動隊もマンホールから現れた行動隊に気づかないまま、その場を走り抜けていったという。行動隊は拳銃を向けた警官を突破し、追跡を振り切って管理棟から管制塔への突入に成功する。管制塔の占拠に成功した行動隊は、管制塔内のあらゆる通信機器を破壊した。管制官たちは、管制塔の屋上に避難したが、行動隊は「人質を取らない。民間人は空港関連に従事する者でも危害を加えない」という規律が課せられていたという。結果として、危害を加えられた民間人は一人もいなかった。
管理棟内にあった警備本部は算を乱して避難し、警察・機動隊の指揮系統が一時乱れた。そのかん、トラックを先頭にした四千人の大部隊のほとんどが空港の奥深くまで突入に成功する。空港の各所で火炎瓶が飛び交い、態勢を整えた機動隊はピストルの乱射をももって応戦する騒乱状態となった。結局、管制塔突入部隊、空港突入の大部隊、「横堀要塞」篭城部隊(あらかじめ掘ったトンネルから脱出を図るが、掘削の方向を間違えて全員逮捕)、空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて計168名が逮捕されたが、空港に突入した大部隊の多くは撤収に成功する。しかし、空港突入時にトラックに乗り合わせた山形大生・新山幸男が、警官隊の発砲した弾丸が積んでいたドラム缶に直撃した際に服に引火して転げ回っている最中にも機動隊員に盾で殴打され続け、全身火傷で二ヵ月後に死亡する(警官隊の発砲で一名が足を弾丸が貫通する重傷を負った)。
また、同時刻頃、三里塚第一公園では、一万五千人を結集して、三里塚・芝山連合空港反対同盟主催の集会が開催されていた。集会中に「管制塔占拠」の報を受けた参加者たちは、大歓声を上げた。そして、機動隊などのなんらの規制もないままにデモ行進に出発する。反対同盟の青年行動隊は、この集会に参加していた新左翼党派に空港に突入するよう要請したが聞き入れられず、このデモ行進は平穏のうちに解散する。
[編集] 余波
福田赳夫首相(当時)はこの事態を「残念至極」と語り、3月28日閣議で開港の延期を決定する。政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」(いわゆる「成田治安時限立法」)を制定した。この時限立法には、国会で青島幸男ただ一人が反対した。
この管制塔の占拠に成功し、3月30日開港を文字通り「粉砕」した闘争について、革マル派は「福田を追い落とすために仕組まれた自民党内部の抗争を反映した警察の不作為の作為による陰謀事件」と機関紙『解放』で論評した。あるいは日本共産党は「政府・警察のトロツキスト泳がせ政策の結果であり、成田空港は"ハイジャック予備軍"に包囲された空港になってしまった」と政府を非難し、「団結小屋の全面撤去と"トロツキスト暴力集団"の徹底取締り」を要求した。共産党の機関紙『赤旗』では推理小説家小林久三が「ほとんど、なすがままに暴力集団の侵入を許した警察の動きはなんだったのか」と思わせぶりなコメントを寄せた。当時革マル派との「内ゲバ戦争」を優先して、「集団戦」ではなく主に空港施設へのゲリラを戦術にしていた中核派は、この管制塔占拠を当初は称賛するが、80年代に入り三里塚闘争の方針をめぐって第四インターとの対立を深めると「"管制塔占拠"は機動隊に追われ逃げ込んだ先にたまたま管理棟があっただけの偶然の産物」と一転して否定的な評価を下すようになる。
一方で、ソ連のタス通信は、この事件に関して「日本の全進歩勢力は、成田空港に反対している」と配信し、ソ連国営放送の報道でも空港反対派に肯定的なニュアンスで反対派と機動隊の衝突場面を何度も流した。
この「管制塔占拠」を支持した文化人も少なくない。71年頃には三里塚現地闘争に駆けつけた経験もある漫画家赤塚不二夫は、78年当時週刊文春で連載していた『ギャグゲリラ』において、成田闘争をモチーフにした作品を管制塔占拠事件の前後短期間に六本掲載している。
- 神様が降りてきて、農民に「大きな声で話す訓練をしなさい」と告げ、何のことかと思ったらジャンボ機が飛んできた、というストーリー。ラストのテロップで「これは千葉に伝わる今の昔話じゃ。お上もむごいことをしなさる」と政府を批判する。
- 「桃太郎」をモチーフにして、三里塚で育ったスイカが「スイカ太郎」となって機動隊をやっつけに行くというストーリー。ラストは、農民が「スイカもがんばっているんだ!わしらも負けてられるか!」とスイカ太郎のあとについて行く。
- 「反対」されないと燃えないカップルが両親から仲を許されたことから、あえて周辺に「反対」の声が連呼する成田空港の近くに引っ越すストーリー。ラストに「いつまでもハンタイし続けてくれ」というテロップが入る。
- ゲイバーで酔っ払いが「管制塔占拠は取り締まり強化のために警察がわざと過激派を空港に入れたんだ」と言うと女装した警官が「ちがうわよ」と否定する場面があるストーリー。
- 父親がジャンボ機の機長、兄が機動隊員、弟が空港反対派の学生の一家が登場するストーリー。
- 空港に行くまでのボディチェックと警備の厳しさによって家族が空港まで見送りにこれないから堂々と空港から不倫旅行ができる、と「過剰警備」を皮肉るストーリー。
あるいは、「水牛楽団」などで活躍していた現代音楽のピアニストで作曲家の高橋悠治は、「管制塔占拠」をニュースでみて即興で『管制塔のうた』を作詞・作曲したという。この曲は、「関西三里塚闘争に連帯する会」が製作した「管制塔占拠闘争」の記録映画『大義の春』で使用され、映画中では中山千夏が歌っている(下記リンク参照)。
5月20日の「出直し開港」の日にも、「滑走路人民占拠」をスローガンにした「赤ヘル三派」を中心に空港周辺の各所で空港反対派が機動隊と衝突したが突入を果たせず、とうとう成田空港は開港した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、開港後もアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やして、しばし航空ダイヤを乱すゲリラ活動を行った。
管制塔を占拠した十五人と計画立案した和多田、共産同戦旗派の首謀者と認定された佐藤一郎は起訴され、全体計画の首謀者に認定された和多田と行動隊リーダーの前田が航空危険罪などで十年以上の懲役をはじめ、全員が実刑判決を受ける。被告の一人である原勲は、82年4月に長期拘禁からくるノイローゼの発作によって、釈放された数日後に自殺した。
また、1995年に確定した空港公団(当時)による損害賠償請求の執行が、時効直前の2005年に給与差し押さえなどの形で開始される。四千三百八十四万円に利息五千九百十六万円の計一億三百万円という請求額だった。元被告たちは、ふたたび結集し、支援者たちと7月から「一億円カンパ運動」を開始。インターネットを主な媒体にしてかつての活動家世代を中心に、11月までにのべ二千人から一億三百万円のカンパを集めきることに成功して、11月11日に法務省で完済した(元被告たちは、このカンパ運動を「一億円叩きつけ行動」と称している)。
- 参照文献『管制塔ただいま占拠中』三里塚管制塔被告団 著 柘植書房 1988年