ゲリラ
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ゲリラ(guerrilla)とは、予め攻撃する敵を定めず、戦線外において小規模な部隊を運用して、臨機に奇襲・待ち伏せ・後方支援破壊等の攪乱や攻撃を行う戦法、またはその戦法が用いられた戦闘、さらにそうした戦闘を推考する武装組織を言う。パルチザン、遊撃戦とも呼ぶ。
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[編集] 語源と分類
半島戦争でフランスに抗して蜂起したスペイン軍のとった作戦を、ゲリリャ(guerrilla、小戦争)と呼んだのが、ゲリラの語源である(普通の規模の戦争は“guerra”)。しかし、ゲリラという言葉が生まれるずっと前の古代から、ゲリラ戦は存在していた。
ゲリラの対極におかれる正規軍・正規戦の概念を理念型にすれば、位置と意図を完全に暴露した軍隊が、常に全戦力を集中し、会戦だけを目標にするといったものになるはずだが、そのような行動は正規軍にとっても合理的なものではない。ゲリラ戦を遂行するものにとっても、特定の根拠地・後方を持たず、戦力を常に分散するといったゲリラ的行動は望んで固執することではない。会戦を回避する機動的な正規軍の行動と、強力なゲリラの行動との境界は明確ではなく、連続面がある。また、正規軍が特殊部隊によって後方攪乱を行うこともある。コマンドウ攻撃と呼ばれるが、内容はゲリラと似通っている。
[編集] 現代のゲリラ
[編集] 農村ゲリラ
現代においてゲリラ戦の有効性を実証し目覚ましい成功をおさめたのは、毛沢東が率いた中国共産党の軍隊であった。彼は都市蜂起戦術を批判し、山岳を根拠地とする農村ゲリラをはじめた。背景には中国史に数ある農民反乱の伝統があったが、毛沢東は単純に農民の数をあてにするのではなく、険阻な山岳に士気の高いゲリラ軍が入って長期抗戦の体勢を整え、それを一般の農民が支援するというスタイルを編み出した。
第二次世界大戦では、中国、ソ連、ユーゴスラビア、フランスなど、枢軸国の侵攻を受けた諸国で占領軍に対するゲリラ戦が展開された。ヨーロッパのゲリラは、特にパルチザンと呼ばれた。これらのゲリラの主任務は、正規軍と連携し、戦線の後方で破壊活動や情報収集をすることであった。ただし、中国とユーゴスラビアのゲリラは山岳地から勢力を拡大して都市の争奪にまで乗り出した。
第二次世界大戦の終了後、アジアとアフリカの植民地で独立運動が盛んになった。その中で、宗主国を相手に独立戦争をはじめるものも現れた。独立戦争のほとんどはゲリラ戦の形をとった。中でもアルジェリア独立戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争では、ゲリラ戦が重要な役割を担った。
独立後、主としてアジアで、毛沢東の思想的影響を受けて革命を目指すゲリラが興ったが、大半が失敗した。中国の影響下にはないキューバのカストロとゲバラの反独裁ゲリラが成功をおさめた。その後、中南米ではキューバの影響をうけて独裁や軍事政権に反対するゲリラが起こされた。ニカラグアのサンディニスタ革命など成功するものもあったが、多くは敗北するか、長引く内戦ですべての当事者が疲弊する結果に終わった。1990年代になるとその一部は麻薬取引に資金源を見出すようになった。
アジアとアフリカには、国内少数民族による独立要求が多くある。その一部もゲリラ戦の形で戦争を行なっている。
さらに、強力な外国軍と戦うイスラム・ゲリラがある。パレスチナのゲリラは、アラブ諸国がイスラエルに敗北してから、イスラエル領内に越境攻撃を行なった。また、アラブ諸国の一つであるレバノンではイスラム原理主義組織ヒズボラが同国南部を占領していたイスラエル軍に対してゲリラ戦及び自爆攻撃を展開し、2000年に同軍撤退という一定の成果を上げた。アフガニスタンでは侵攻して来たソビエト連邦やアメリカ合衆国に対してゲリラ戦が起こった。2003年現在にはアメリカ合衆国に対するゲリラ戦がイラクで展開されている。
[編集] 都市ゲリラ
都市ゲリラは、1960年代にブラジルのカルロス・マリゲーラが提唱したもので、都市において軍隊と警察に間断なく小襲撃を加えることである。ゲリラはふだんは住民にまぎれ、住民に匿われて潜伏している。都市ゲリラは、活動の開始時こそ世間の耳目を集めたが、小規模で散発的なテロを超えることはなかった。例外的に成長したのがウルグアイのトゥパマロスであったが、これも激しい弾圧を受けて頓挫し、いずれも名ほどの実を伴わない結果に終わった。先進国にも都市ゲリラを標榜し実行した組織は多いが、それだけで戦争の一類型というほどの規模になったものはない。
中国の便衣兵も一種の都市ゲリラであったが、日中戦争後半ではどちらかというと共産党軍の一兵科であるという性格が強くなっていった。
キプロス独立に際しては、ゲオルギオス・グリバス率いる、「エオカ」と呼ばれるギリシャへのキプロス併合をも求めるギリシャ人過激派が駐留英軍とその家族に対して攻撃を行ない、後にトルコ系住民や独立運動に関心を示さないギリシャ系住民をも標的とした。作戦そのものは成功したが、彼らの本来の目標であるギリシャ併合は達成されなかった。また、独立後、こうした行動がトルコ系住民の反発と怒りを買い、トルコ系住民独自の民兵組織が結成された。エオカの後身(「エオカB」と呼ばれる)とトルコ系民兵組織は激しく衝突し、1974年にはトルコの軍事介入とキプロス北部の占領によってトルコ系住民だけの国家「北キプロス・トルコ共和国」が建国され、キプロスは分断、という「副作用」に苦しめられる事になった。
[編集] 国際法上の位置づけ
ゲリラ戦は、正規軍同士の戦争で劣勢が明白な側が、敗北を認めずに続行する延長戦として用いられることが多い。強国にとってゲリラ戦は弱い敵を屈服させにくくする障害でしかない。しかし弱者にとってゲリラ戦は侵略に対する有効な戦法であり、中にはゲリラ戦によって独立を勝ち取った国もある。近代戦時国際法(国際人道法)の形成期には両者の対立があり、1874年のブリュッセル会議、1899年のハーグ会議で争われた。
この対立は、ゲリラ戦に従事した者が戦闘中、または非戦闘中に敵に捕らえられたときの待遇と直結するものである。ゲリラ戦否認はゲリラ兵を凶悪な殺人者として処刑して良いとする主張に道を開くが、ゲリラ戦を承認すればゲリラの戦闘参加が犯罪とみなされることはない。両者の妥協として生まれた諸条約は、基本的に後者の立場をとるが、住民との区別のために制限を課した。
ハーグ陸戦条約は、責任を持つ長を持ち、遠方から認識できる徽章を付け、公然武器を携行し、戦争の法規と慣例を遵守する民兵・義勇兵は交戦者資格を持つと定めた(1条)。また、占領地の人民が敵の接近に際して軍を組織する暇なく公然武器を携行し、戦争の法規と慣例を遵守するときには、これもまた交戦者資格を持つとした(2条)。条件は、非戦闘員たる住民と戦闘員たるゲリラ兵を区別し、一般住民を装って接近してから突如武器を取り出して攻撃を加えるような背信を防ぐ意義を持つ。
しかしながらこれらの条件は、満たすことが難しいだけでなく、満たした場合においても敵国から戦闘員としての権利を否認されることが多かった。ゲリラは制服や徽章を着用していない場合が多く、着用していても敵に制服・徽章としての効力を否定されることが多かったからである。逆に、この条文を「戦闘時に、自身の所属する部隊を証明する軍服を着用しなければならない」と拡大解釈され。特殊部隊などは、自国の戦闘服の上に交戦国の服を着用、戦闘直前に脱ぎ捨てるという戦法をとるケースがあった。
第二次世界大戦後、植民地からの独立のためにゲリラ戦を遂行する組織に交戦者資格を与えようとする動きが高まり、ジュネーブ条約第一議定書で正規軍とゲリラに区別なく交戦者資格を与える規定が盛りまれた。同議定書は、敵側の承認の有無にかかわらず政府・当局の下で武装され組織された集団を軍隊と定め、正規軍と非正規軍の区別を廃した(43条1項)。また、一般住民との区別のためには、攻撃準備行動中に敵に見られている間と交戦中に公然と武器を携行することを条件とした(44条)。
この拡張を勘案しても、都市ゲリラが戦闘員として認められる余地はほとんどない。条約が課した条件を満たさない状態で戦闘した兵士が敵に捕らえられた場合、捕虜として遇されることはなく、その戦闘参加行為を犯罪として裁かれる可能性がある。しかしこの場合でも捕虜として待遇されないというだけで、裁判なしの処刑は認められない(ハーグ陸戦条約23条)。