摂家将軍
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摂家将軍(せっけしょうぐん)は、鎌倉幕府将軍のうち、第4代藤原頼経とその嫡男の第5代藤原頼嗣の2人の将軍のこと。
3代将軍源実朝が暗殺され、その源実朝に子がいなかったことにより将軍家である源氏嫡流(河内源氏義朝流)が途絶えた。執権北条氏は、源頼朝の妹の曾孫にあたる頼経を2歳で鎌倉の主として迎えた。藤原頼経は、名門公家の九条家の出身で、摂家の家格を有していたことからこの名でよばれる。
将軍在任期間は、それぞれ藤原頼経が18年間(1226年-1244年)、藤原頼嗣が8年間(1244年-1252年)と比較的長期間ではあったものの、幼いころから成人するまでの期間で政治的な力も全くなく、幕府の実権は、北条氏が完全に掌握していたため将軍とは名ばかりの傀儡将軍だったが、特に藤原頼経は、傀儡であることを嫌ったがため北条氏によって煙たがられた不遇の将軍であった。
4代執権北条経時と、5代執権時頼は、いずれも将軍藤原頼経の偏諱を受けている。
頼嗣の後の将軍は後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が1252年に迎えられ、鎌倉幕府は皇族将軍が就くことになる。
しかし、これにも将軍としての力は全くなく、幼少期に就任し、成人すれば退位させられるという形であった。
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