後嵯峨天皇
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後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日)- 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日)- 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。
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[編集] 系譜
土御門天皇の第二皇子。母は、土御門通宗の娘、源通子。
- 主な妃、皇子女
- 中宮:西園寺(藤原)姞子(姞=[女吉])(1225-1292)
- 掌侍:藤原博子
- 第八皇子:覚助法親王(1247-1336)
- 第二皇女:柳殿
- 第十皇子:浄助法親王(1253-1280)
- 第六皇女:懌子内親王(1262-1294)
- 生母不明
- 第二皇子:高峰顕日(1241-1316)
[編集] 系図
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(77)後白河天皇 |
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(78)二条天皇 |
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(79)六条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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以仁王 |
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(81)安徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(80)高倉天皇 |
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守貞親王 (後高倉上皇) |
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(86)後堀河天皇 |
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(87)四条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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亮子内親王 (殷富門院) |
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(82)後鳥羽天皇 |
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(83)土御門天皇 |
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(88)後嵯峨天皇 |
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式子内親王 |
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(84)順徳天皇 |
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(85)仲恭天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(88)後嵯峨天皇 |
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宗尊親王 (鎌倉将軍6) |
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惟康親王 (鎌倉将軍7) |
〔北朝〕 |
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(北朝1)光厳天皇 |
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(93)後伏見天皇 |
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(北朝2)光明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【持明院統】 (89)後深草天皇 |
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(92)伏見天皇 |
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(95)花園天皇 |
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直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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尊円法親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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久明親王 (鎌倉将軍8) |
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守邦親王 (鎌倉将軍9) |
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【大覚寺統】 (90)亀山天皇 |
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(91)後宇多天皇 |
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(94)後二条天皇 |
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邦良親王(木寺宮) |
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康仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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〔南朝〕 |
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(96)後醍醐天皇 |
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[編集] 略歴
土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。
ところが四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとしたが、執権北条泰時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の妻は泰時の異母妹であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。
邦仁王は1242年即位し、1246年、在位4年で後深草天皇に譲位。以後、院政を敷く。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚した事もあって、以後上皇の主導によって朝廷内の政務が行われる事になった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用されて院政が展開されていく事になる。1259年には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である亀山天皇への譲位を促した。
後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。また、摂関家の代わりに、宗尊親王を将軍として送っている。以後、鎌倉幕府の将軍は天皇家より出ることになる。また、この時代に北条氏が鎌倉幕府を掌握し、執権政治を確立する。
1272年、崩御。
後嵯峨上皇が、後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなった。
[編集] 在位中の元号
[編集] 陵墓・霊廟
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)に葬られた。
[編集] 関連項目
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歴代天皇一覧 | |||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿徳 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 応神 | 16 仁徳 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝徳 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 弘文 | 40 天武 |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 称徳 | 49 光仁 | 50 桓武 |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文徳 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 円融 | 65 花山 | 66 一条 | 67 三条 | 68 後一条 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 |
71 後三条 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇徳 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二条 | 79 六条 | 80 高倉 |
81 安徳 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順徳 | 85 仲恭 | 86 後堀河 | 87 四条 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二条 | 95 花園 | 96 後醍醐 | 97 後村上 | 98 長慶 | 99 後亀山 | 100 後小松 |
北朝 | 1 光厳 | 2 光明 | 3 崇光 | 4 後光厳 | 5 後円融 | 6 後小松 | |||
101 称光 | 102 後花園 | 103 後土御門 | 104 後柏原 | 105 後奈良 | 106 正親町 | 107 後陽成 | 108 後水尾 | 109 明正 | 110 後光明 |
111 後西 | 112 霊元 | 113 東山 | 114 中御門 | 115 桜町 | 116 桃園 | 117 後桜町 | 118 後桃園 | 119 光格 | 120 仁孝 |
121 孝明 | 122 明治 | 123 大正 | 124 昭和 | 125 今上 | ※赤字は女性天皇 |