文玉珠
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文 玉珠(ムン オクチュ、Mun Osuku/Okuchu/Okchu)は 釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(通称関釜裁判)において従軍慰安婦として原告の一人であった。
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[編集] 略歴
証言の変動があるため、証言内容を列記する。
- 1924年4月3日または1924年4月23日に生まれた。
- 7才または8才に父死亡
- 手記(『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』)によると12歳頃 九州で働いていたが半年で帰国しキーセン見習いとなった。16才で満州へ拉致されたが17才で朝鮮半島に戻りキーセンになり、仲間とビルマに渡り慰安婦となった。
- 証言集(『証言 従軍慰安婦 女子勤労挺身隊』)では私立の夜間学校に3年通った後中退、10-15才まで家政婦となる。15才からは2-3年ほど靴下工場に勤務していたがお金になる職があると聞かされ、その職がが慰安婦である事を知らずにビルマに行き慰安婦にされた。
- 7-8か月くらいマンダレーにいた後、ラングーン等に移動し、最終的にはタイのアユタヤの野戦陸軍病院で終戦を迎えた。
- 終戦後3ヶ月ほどして帰国。
- 1996年10月に72才で死去。
[編集] 証言内容について
- ソウル大学の安秉直教授の調査では、40人以上の自称慰安婦たちから聞き取り調査を行ったが、実際に売春婦として働いていたと認められたのは19人であった。そのうち強制連行されたと主張した4人のうち、実際に可能性がある証言を行ったのは文玉珠と金学順の二人だけであったと結論されている。
- 26145円の貯金をし、この外、5000円を実家に送金した と裁判で証言している。(物価比較の基準としてよく用いられる米一俵=60kgの値段は、昭和16年で16円程度、昭和19年で18円程度、昭和20年終戦時で60円程度,平成になると変化なくほぼ1万5000円程度であったとされている。)
[編集] 裁判記録
ミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事貯金の支払いを求めたもの。 1943年6月から1945年9月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円であった。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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