金学順
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金 学順(キム ハクスン、Kim Hak-soon/Hak Sun )は1991年最初に従軍慰安婦として名乗り出て、多くの証言を行った。多くの研究者が彼女の証言を信頼し慰安婦であったと認めている。[1] 。
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[編集] 略歴
(韓国挺身隊問題対策協議会の調査による[2])
- 1924年 中国の吉林省(当時の満州)に生まれる。
- 父が死亡したので平壌(現在の北朝鮮)へ母と移住 。
- 母子家庭で貧困のため小学校は11才で中退
- 金泰元(おじにあたる)の養女となり 、15歳から3年間 妓生学校に通った 。
- 1941年 「お金が稼げる」と言われて、金泰元に連れられ中国へ渡った。
- 中国で金泰元と別れて慰安所に入れられ 日本軍の慰安婦として働くが同年に慰安所を脱出。
- 1946年に韓国に渡った。
- 1991年8月に従軍慰安婦であったことを公表、記者会見。
- 同年12月に日本国を提訴。
- 1997年12月16日に死去。
[編集] 報道について
新聞報道としては朝日新聞が1991年8月11日に掲載した慰安婦の記事が最初のものである。インタビューして記事にした記者は当時ソウル支局勤務であった植村隆記者。この記事における『日中戦争や第二次世界大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、』という記述から、韓国で「女子挺身隊」=「従軍慰安婦」という認識ができたとされている。後の訴訟時にはこの「女子挺身隊」という用語は登場していない。
[編集] 証言履歴
- 朝日新聞1991年8月11日の記事では『慰安所は民家を使っていた。5人の朝鮮人女性がおり、1人に1室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられ、毎日3、4人の相手をさせられた』というものであった。
- 地裁への訴状では『翌日から毎日軍人、少ないときで10人、多いときは30人くらいの相手をさせられた。朝の8時から30分おきに兵隊がきた』となっている[3]。
[編集] 裁判記録
慰安婦について1991年12月に補償を請求して提訴提訴。1次原告35人うち慰安婦は3名、他は元日本国軍人、、2次原告は元慰安婦6人
- 2001年に3月に東京地方裁判所は請求を棄却。この時点で金学順は死亡している。
- 2004年11月 最高裁も棄却。
[編集] 証言の信頼性について
- ソウル大学の安秉直教授は金学順の証言について以下のように書いている[2]。
『調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した。』
- 吉見義明教授は秦郁彦の批判に答え、3回の彼女の証言の中で安秉直教授による韓国挺身隊問題対策協議会による調査結果が最も信頼できるとしている[4]。生年は戸籍で確認され、ヒアリングは何回も行われており、本人に不利な証言もしているためである。彼女の証言では秦郁彦と同じように、慰安婦になったのは養父に売られた可能性があることを指摘している。吉見は証言の中で何が誇張され何がほぼ事実かを判断するのが歴史学での実証的研究であり、漠然と証言間に差異があるとするのではなく、信頼できる事実を判断しくみ取ることを述べている。その結果彼女が中国で慰安婦になった点では証言間で差異はなく信用できるとしている。
- ^ 例えば尹明淑(日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 尹明淑 明石書店 2003:一橋大学 博士論文)また彼女が慰安婦ではなかったとする研究者はない
- ^ a b 証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993
- ^ 研究者の調査では多くの朝鮮人慰安婦が多いときは数十人の相手をしたと証言している。(例えば:従軍慰安婦 吉見義明 岩波新書 1995)
- ^ 「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実 吉見義明・川田文子 大月書店 1997
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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