文鴦
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文鴦(ぶんおう、238年 - 291年)は、中国の晋の武将。魏に仕えていた文欽の子。
本名は文俶(「淑」という記載もある)という。父・文欽と毌丘倹が反乱を起こしたとき、父に従って司馬師の軍勢と戦い、その武勇で敵に恐れられた。しかし、戦局が不利になったため、父と共に呉へ逃亡する(『晋書』景帝紀・『三国志』毌丘倹伝)。
諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こすと、 呉の武将として諸葛誕の救援に向かった。しかし、父と諸葛誕が作戦をめぐって対立し、父が諸葛誕に殺されると、自分も殺されることを恐れて司馬昭に降伏した。このとき、将軍に任じられている(『三国志』諸葛誕伝)。
265年に魏が滅んで晋が成立すると、司馬炎に仕えて平虜護軍となる。そして、涼州で反乱を起こした羌族の討伐に向かい、大勝利の功績を挙げた。しかし、司馬炎には疎まれていたという(『三国志』諸葛誕伝・『晋書』司馬駿伝)。
司馬炎の死後はその子・恵帝に仕えた。291年、賈皇后(賈充の娘で賈南風)がクーデターを起こし、実権を握っていた楊駿一党を殺害した。クーデタ―に参加した東安公・司馬繇は諸葛誕の外孫にあたり、文鴦を恨んでいた。そこで文鴦を楊駿の一味と讒言し、その結果文鴦の三族は皆殺しにされた(『晋書』司馬繇伝)。