斡本
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斡本(あつほん、女真音:オベン、生年不詳 - 1141年)は、金の皇族。中国名は宗幹。初代皇帝の阿骨打の庶長子。爵位は遼忠烈王。
1135年(天会13年)に叔父の太宗が没すると、族兄の晋王粘没喝(宗翰)と共に甥で養子でもある合刺(太祖の孫)を擁立して、太宗の子の阿魯(宗磐・宗本)と族父の撻懶(ダラン、宗昌、太祖の季父の穆宗・盈歌の子)と対立した。やがて、阿魯・撻懶が失脚し、彼の今度の標的は皇族の実力者である粘没喝の権力の弱体化であった。こうして、彼は煕宗に上奏して、粘没喝を太保領三省事という皇帝側近の名誉職に就任させて、大同を基盤としていた粘没喝の軍事権を奪ったのであった。このために軍事権を剥奪された粘没喝は次第に憔悴し、1137年(天会15年)に不遇のままで59歳で病没した。やがて、阿魯・撻懶が再び権力奪回すると、斡本は今度はこの両人と組んで、金の傀儡属国である斉帝・劉豫を蜀王に降格して、内蒙古にある臨潢府に強制的に移住させた。以降も斡本は権力を握り、異母弟の梁王斡啜(兀朮・宗弼)と組んで、阿魯・撻懶と再び対立したという。
やがて、1139年(天眷2年)夏4月に斡本は兀朮と共に阿魯を再び失脚させ、撻懶を処刑したのである。但し、撻懶の異母弟の吾都補(宗昂)は斡本に属しており、兄と対立していたために連座はされなかったという。
こうして、肩の荷を降ろした斡本は、1141年(皇統元年)秋8月で病没したという。熙宗はこの養父の逝去を大いに悲しみ慟哭したという。
やがて、次男の迪古乃が従兄の熙宗を惨殺して、即位すると亡父に対して、徳宗・明粛皇帝の諡号を贈ったという。だが世宗の代になると、暴君の父ということで廟・帝号が削除され、皇伯・太師・梁宋王に降格されたという。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 徒単皇后
- 大貴妃
[編集] 子女
- 完顔某(長子・徒単氏の子)
- 海陵煬王迪古乃(大氏の子)