斯波義健
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斯波 義健(しば よしたけ、永享7年(1435年) - 享徳元年9月1日(1452年10月13日))は室町時代中期の守護大名。斯波義郷の子。幼名は千代徳丸。官位は従四位下治部大輔。妻は吉良義尚の娘。
永享8年(1436年)、父・義郷が落馬のために死去したため、わずか2歳で家督を継ぐこととなった。嘉吉元年(1441年)閏9月、駿河国守護の今川範忠と遠江国の所領をめぐって争った。宝徳3年(1451年)11月に元服し、従四位下治部大輔に叙任。しかし、翌享徳元年(1452年)、18歳の若さで死去。法名は洞仙院殿道寿永源。嗣子が無く、義健の死後、斯波氏は斯波義廉と斯波義敏による後継者争いが勃発することになるが、それには義健の若死にも一因しているのである。