斯波義敏
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斯波 義敏(しば よしとし、永享7年(1435年) - 永正5年11月16日(1508年12月8日))は、室町時代の守護大名。官位は左兵衛督従四位下、後に従三位昇叙。越前・尾張・遠江守護。父は斯波持種、斯波義健は義父。子に斯波義寛、斯波義雄。享徳元年(1452年)9月、斯波義健が若年で死去したため、庶流であった義敏が家督を継いで当主となった。
斯波家被官で執事の甲斐常治(越前・遠江守護代)は、義敏の父の持種とともに、長年にわたって家中を指揮していたが、常治と持種は主導権を巡って対立し、義敏が家督を相続したことにより、その対立は、義敏対常治という主従の争いとなる。常治は、室町幕府8代将軍足利義政や、朝倉孝景などの協力を得て越前等の領国経営を押し進めたため、義敏は幕府にその専横を訴えたが、長禄元年(1457年)には逆に義敏が東山東光寺に篭居するはめとなった。長禄2年(1458年)には、将軍義政が両者の仲裁をはかるが、その後も常治と義敏の対立は収まらず、越前では、義敏派の国人堀江利真と常治派の朝倉孝景らが衝突し、その年の7月ころ、ついに長禄合戦へと発展する。
義敏は、長禄3年(1459年)、義政から堀越公方・足利政知の救援を命じられて兵を集めたが、その兵をもって甲斐方の金ヶ崎城を攻めたため、義政の忌避に触れて家督を松王丸に譲らされ、周防国の大内政弘のもとへ追放される。
長禄合戦は、その年の8月、常治派の勝利となり、常治が死去した後、孝景や山名宗全(持豊)らの工作によって、寛正2年(1461年)9月に斯波家家督松王丸が廃され、渋川義鏡の子の斯波義廉が継承することとなった。そのため、義敏は、反義廉となって幕府側近などに対し、その復帰工作を行うようになる。
義政は、側近の伊勢貞親、季瓊真蘂らの進言を受け容れ、寛正4年(1463年)12月、上洛した義敏と対面して赦免し、文正元年(1466年)7月には、義敏に対して、斯波家家督を与え、尾張国・遠江国・越前国3ヶ国の守護に任じた。ところが、家督を奪われることとなった義廉が義父(妻の父)の山名宗全を頼り、一色義直、土岐成頼らも義廉に味方するようになり、さらに、同年に貞親の助言で大内政弘が赦免されると、これに反対していた細川勝元までもが反貞親として義廉の味方となり、9月には貞親や真蘂、赤松政則らが失脚する文正の政変に発展し、義敏も越前へ下る。
このような斯波家の内訌に加え、足利将軍家の継嗣問題や、畠山氏の家督争いなどが関係して応仁の乱が起きると、義敏は、細川勝元率いる東軍に属して戦い、京での戦乱を後目に、いち早く越前に下向して戦果を上げようとした。しかし、後に、文明3年(1471年)に東軍へ寝返った孝景により、越前の実力支配を押し進められる。
最後は、越前統一を目前とした孝景に対抗するため、越前大野の土橋城に籠もるも、文明7年(1475年)末、孝景の総攻撃を受けたため、城を抜け出ると、孝景によって京に送り帰された。
文明13年(1481年)、斯波氏嫡流の事績及び自分の嫡流相続の経緯をまとめ「斯波家譜」として残す。文明17年(1485年)8月に出家。永正5年(1508年)、74歳で死去した。法名は即現院殿道海深叟。
文化的活動としては連歌なども行う。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1452年(享徳元)、家督相続。
- 1466年(文正元)7月、再び家督相続。
- 1472年(文明4)12月20日、従五位下に叙位。そして左兵衛佐に任官か?
- 1475年(文明7)10月、尾張国に赴く。
- 1478年(文明10)7月24日、従四位下に昇叙。これ以降、左兵衛督に転任か?
- 1484年(文明16)8月8日、従三位に昇叙。