新田貞時
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新田 貞時(にった さだとき、文政3年(1820年)4月10日- 明治6年(1873年)3月9日)は、江戸時代の高家旗本。播磨赤穂城主森忠敬の三男(正室腹の)。初名は可時(よしとき)。童名は森三郎、通称は由良久之助。官位は従五位下侍従兼信濃守。(一般士族が維新以後に位階を返上した後も「従五位」を保持)
赤穂藩江戸藩邸に於いて誕生。森三郎可時と名乗る。実父森忠敬は播磨赤穂藩主である。母は正室、東。酒井河内守源忠實女(酒井忠実)。 天保15年(1844年)3月15日、高家旗本由良貞靖の養子となる。 同年8月15日将軍徳川家慶に御目見し、表高家となる。 嘉永6年(1853年)1月27日部屋住ながら高家見習を仰せ付けられ、御切米500俵下される。 同年2月5日従五位下侍従、信濃守に叙任する。(尚、この日は将軍から「由良久之助」を「由良信濃守」と改名する「諸大夫」成りを仰せつけられた日であり、位記は後日朝廷から拝す) 同年10月2日高家職に就任し、御役料1000俵を賜る。 元治元年(1864年)7月29日養父貞靖の隠居により、家督を相続する。 慶応4年(1868)春、養父貞靖と共に新田姓に復し、官軍に随従。 同年7月諸旧臣(当時の家臣と旧領上野国時代の臣下筋)を率い上京。 翌明治2年(1869)新政府の中大夫となり家録75石を給せらる。 明治4年(1871)他の旧高家衆、旧交代寄合(一部高禄の領主は立藩し華族となる)と共に士族(新田家は東京府士族)となる。
明治維新後、新政府に対して自らが新田義貞の嫡流であることを強く主張し、同じ高家衆で由良家分家の横瀬家(横瀬は由良の旧姓)当主・横瀬貞篤と共に新田氏の顕彰に努める。明治元年(1868年)9月のものとして「新田姓」を称した史料も確認されるということは、『新田家系譜』の慶応4年新春に「王臣新田氏に復姓」の記事の裏付けとなる。明治3年(1870年)3月27日明治政府に対し、先祖とする新田義貞に対する神号の付与を願う。そうした働きかけは、新田義貞を祀る群馬県新田郡(現太田市)の旧金山城址鎮座の新田神社(旧群馬県社)、義貞薨去(正一位を贈位されたので薨去という)の地・福井市の藤島神社(明治9年官社ー別格官幣社となる)の建立につながった。 明治6年(1873年)3月9日死去、享年54。正室は養父貞靖の女。葬儀は神葬祭で執り行われ、「源阿曾美新田貞時命」(阿曾美は朝臣の意)、また「新田従五位源朝臣貞時大人命」と諡号された。 後継新田貞善(旧由良貞善)は嫡男である。
以上、「新田家記録」などにより抽出。(新田義和 責)
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