明帝 (東晋)
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明帝(めいてい、301年-325年、在位は322年-325年)は、東晋の第二代皇帝。姓は司馬、名は紹、字は道畿。初代皇帝であった元帝(司馬睿)の長子。廟号は粛宗。生母は代郡(河北省北部)出身の荀氏(側室)。一説では、彼女は漢化した鮮卑族の娘だという。
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[編集] 略要
[編集] 経歴
301年、琅邪王であった司馬睿の長子として誕生。幼い頃から頭脳明敏で父に愛された。317年、父が晋王となるとその世子となり、318年に父が皇帝になると皇太子となる。
322年、王敦が反乱を起こし官軍が大敗した際には、自ら出陣しようとしたが、側近の温嶠(曹魏の武将の温恢の末裔)の諫言により抑えられた。 勇猛果敢かつ剛毅な人物であった紹は、王敦に忌避され、また、元帝が末子の会稽王・司馬昱を溺愛したこともあり、太子の地位が微妙となったことがあった。しかし、信頼する温嶠の弁舌により救われて廃嫡は免れた。
間もなく元帝が崩じたため即位する。やがて王敦が丞相・楊州牧を称して再び反乱を起こすと、その軍を破って反乱を鎮圧する。しかし、王敦は324年に病で既に逝去していたため、果敢な新皇帝の明帝はその棺を暴いてその屍に刑を加えたという。
明帝は、皇帝権力の安定化のために王導を重用して、江南の貴族とも融和的な政策を採った。 明帝は東晋随一の名君だったが、惜しくも28歳の若さで崩御した。もし、彼が長命だった場合は東晋王朝の命は延びていたかもしれないと評価されている。
俗説では、明帝は、孫呉の孫権と同じように碧眼で紫髪で黄髭だったという。 王敦が、明帝の容貌を見て「太子は鮮卑奴(鮮卑族を侮辱した言葉)なり!」と評して述べていたという(『晋書』「王敦伝」)。
[編集] 宗室
[編集] 子
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