明治十四年の政変
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明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、1881年(明治14年)自由民権運動を巡る政府内の対立から、伊藤博文が大隈重信を追放した事件。薩長藩閥政府の体制が確立した。
大久保利通亡き後、明治政府は伊藤博文・井上馨(長州閥)と大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。大隈重信は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対立していた。また、自由民権運動に同情を示し、早期の憲法公布と国会の即時開設を主張していた。一方、開拓使長官の黒田清隆が政商五代友厚に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると(開拓使官有物払下げ事件)、政府への強い批判が起こり自由民権運動が盛り上がった。
政府内で払下げに反対していた大隈の処分と反政府運動の鉾先を収めるため、右大臣岩倉具視、参議伊藤博文、井上毅らは協議を行い、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に大隈の罷免、払下げ中止、10年後の国会開設などの方針を決めた。天皇が行幸から帰京した10月11日に裁許を得て、翌日国会開設の詔勅などが公表された。
野に下った大隈は10年後の国会開設に備え、翌1882年には小野梓とともに立憲改進党を結成、また東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田に開設した。
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