月光院
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月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は江戸幕府六代将軍徳川家宣の側室で、七代将軍徳川家継の生母。父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲、母は和田治左衛門の娘。名はお喜世、輝子。甲府藩主・徳川綱重は義父。館林藩主・松平清武は義弟。
[編集] 生涯
初め京極氏、次に戸沢氏に出仕し、後に四代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養子に迎えられた。そして宝永元年(1704年)には徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿に出仕するようになった。
やがてお喜世は綱豊から寵愛を受ける。その年の12月には五代将軍徳川綱吉の養嗣に綱豊が迎えられ、江戸城の西の丸に入ることになり、正室近衛熙子やお喜世らの側室も西の丸に同行した。
そして宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり六代将軍に就任。同年7月、お喜世は男児(家宣の四男)を出産。鍋松と名付けられた。後の家継である。お喜世も左京の局と呼ばれるようになった。この時には家宣には大五郎(家宣の三男)という側室のお須免が産んだ子がおり、次期将軍候補となっていたのだが、お喜世はどうしても鍋松を世継ぎにしたく、家宣の腹心であった間部詮房と通じて鍋松を世継ぎにと薦めていたようである。
そんなお須免とお喜世の争いの中、宝永7年(1710年)に大五郎が3歳で急逝した。お喜世の策略との噂とも囁かれた。その2年後の正徳2年(1712年)10月、家宣が死去。お喜世は落飾し「月光院」となった。翌正徳3年(1713年)、家継に将軍宣下。月光院は従三位の位を賜った。
ある日のこと、家継は月光院と側用人間部詮房が密会しているのを見、「詮房こそ将軍のよう。」と寂しげに天英院(近衛熙子)に漏らした事があるという。お喜世と間部詮房は、桜田御殿時代からの深い仲であったようだと言われている。この事から大奥の風紀は乱れ、正徳4年(1714年)に月光院の右腕とも言える大奥御年寄絵島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れた絵島生島事件が発生した(歌舞伎では情事となっているが、事実ではないともいわれている)。月光院の気のゆるみから発生した事件でもあった。
だが享保元年(1716年)、月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞をさせ、家継は風邪をこじらせて死去した。その後の八代将軍には、家宣の遺言と言うこともあり紀伊徳川家から徳川吉宗が迎えられた。吉宗が延享2年(1745年)に引退の動きを見せると、九代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとした。
そして宝暦元年(1751年)に吉宗の死を見届けた翌年、宝暦2年(1752年)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。
月光院は和歌にも優れており、歌集『車玉集』を著している。