朝倉将景
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朝倉 将景(あさくら ゆきかげ、生年不詳 - 長禄3年8月11日(1459年9月7日))は室町時代末期の武将である。越前国の鳥羽(鯖江市鳥羽)に領地があったと考えられ、姓を「鳥羽」とすることもある。通称は豊後守、弾正左衛門。法名先照郎用(又は光照郎用)。
将景は、朝倉氏第5代当主教景(心月)の子であり、第6代当主家景(固山)の兄弟である。 しかし、家景の死後、第7代当主となった朝倉孝景(英林)とは反目し、長禄2年に始まった守護斯波義敏と守護代甲斐常治との合戦(長禄合戦)では、守護側に与して孝景と対立する。
長禄3年8月11日、越前国足羽郡和田荘の合戦で、孝景らに討ち取られて死亡。享年不詳。将景の息子景正も、同じ和田での合戦で討ち取られたが、将景の曾孫である朝倉右馬助景富(景冬の婿)が鳥羽家を継いでいる。
将景の娘が孝景に嫁いでおり、孝景とは義理の親子関係にある。