朝倉孝景 (7代当主)
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時代 | 室町時代中期 | |||
生誕 | 正長元年4月19日(1428年6月2日) | |||
死没 | 文明13年7月26日(1481年8月21日) | |||
改名 | 幼名:小太郎 改名:教景→敏景→教景→孝景 法名:英林宗雄 |
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別名 | 孫右衛門尉、弾正左衛門尉 | |||
戒名 | 一乗寺殿英林宗雄居士 | |||
墓所 | 福井県福井市英林塚 | |||
氏族 | 朝倉氏 | |||
父母 | 朝倉家景 | |||
兄弟 | 孝景、経景、輿市郎、景冬、光玖 聖室宗麟、久嶽紹良、定国 |
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妻 | 円渓眞成大姉(朝倉将景娘)、 桂室永昌大姉(逸見氏養女、温科氏娘) |
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子 | 氏景(第8代)、景明、孫四郎、景総、 教景(以千宗勝)、時景、景儀、教景(宗滴) |
朝倉 孝景(あさくら たかかげ )は室町時代中期の武将。朝倉氏七代目当主。当初教景(のりかげ)と名乗り、次いで敏景→教景→孝景の順で改名している。よって同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの一つである「朝倉敏景」と表記する事がある。また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。
目次 |
[編集] 生涯
朝倉氏は元は越前国(福井県)の土豪であったが、南北朝時代を経て越前守護斯波氏の重臣となった。 長禄2年(1458年)に始まった越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の合戦(長禄合戦)で、孝景は、守護代側に与し、その主力として活躍する。長禄3年8月11日、足羽郡和田荘での合戦で、守護側の堀江利真・朝倉将景(孝景の叔父であり、義父)らを敗死させ、守護代方を勝利に導くとともに、その地位を高める。また、和田での合戦の翌12日、甲斐常治が京で亡くなったため、相対的に孝景の影響力が強まった。
長禄合戦の最中、合戦を引き起こした斯波義敏が八代将軍足利義政の忌諱に触れて周防に没落し、その子息松王丸(後の斯波義良)がわずか3歳で守護となっていたものの、孝景は、山名宗全と組んで、寛正2年9月2日、足利庶流である渋川義鏡の子息斯波義廉を斯波氏家督とすることに成功する。
ところが、幕府政所執事伊勢貞親が、自己の妾と義敏の妾が姉妹であったため、義敏に肩入れしていた。その結果、文正元年7月24日、義廉は斯波氏家督を追われ、代わりに斯波義敏が斯波氏惣領に復帰する。これに反発した孝景と宗全らは、文正の政変を起こして、伊勢貞親、斯波義敏、赤松政則らを京から追放し、再び義廉が斯波氏惣領となる。
このような斯波氏の内訌に加え、足利将軍家や畠山氏の家督相続問題から、応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発すると、孝景は、当初、主家の斯波義廉と協力して西軍として活躍する。伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将骨皮道賢を討ち取ったのも孝景である。
ところが、孝景は、文明3年5月、将軍義政及び細川勝元から、守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返ると、当初苦戦するも、その後は、連勝を重ねて実力で越前一国をほぼ手中に収める(下記「戦歴」参照)。甲斐常治の嫡子である甲斐敏光や二宮氏らの反撃を受け、一時苦境に立たされる中、文明13年(1481年)、享年54で死去する。しかし、その跡を継いだ朝倉氏景が、孝景の弟である朝倉経景、朝倉景冬、朝倉光玖の助力を得て、越前を統一した。
従来、一乗谷を朝倉氏の本拠としたのはこの孝景であると言われていたが、『朝倉始末記』という流布本にのみ記載されているもので、ほかに根拠はなく、『親元日記』などの史料によれば、かなり以前から朝倉氏が一乗谷に根拠を持っていたことが判明している。
分国法である「朝倉敏景十七箇条」(朝倉孝景条々)を制定する。生前は、公領や公家領・寺社領の押領などを行った。このため、多くの公家から憎まれていたという。公卿の一人甘露寺親長は日記の中で敏景のことを「天下悪事始行の張本」と評している。また、興福寺別当の経覚はこれに対抗して延暦寺に追われていた親戚の本願寺蓮如を自領の吉崎に匿って代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許した。これが後に朝倉氏歴代を悩ませる一向一揆の温床となった。
その一方で、孝景は、連歌・和歌などに親しみ、歌僧正徹、連歌師飯尾宗祇などと交流を持っていた。
[編集] 戦歴
孝景の主だった戦歴は以下のとおりである(旧暦で記す)。
【長禄合戦】
- 長禄 2年11月 1日 近江・越前国境、×甲斐敏光・孝景 ─ ○堀江利真
- 長禄 3年 5月13日 越前・金ヶ崎城、○甲斐敏光・孝景 ─ ×斯波義敏
- 長禄 3年 8月11日 越前・足羽郡和田、○孝景・堀江庶流 ─ ×堀江利真・朝倉将景ら
【応仁の乱─京都】
- 応仁元年 1月21日 京都、○孝景 ─ ×大野持種
- 応仁元年 5月26日 京都、○孝景外 ─ ×京極持清
- 応仁元年 6月 8日 京都、○孝景 ─ ×京極持清
- 応仁元年 6月11日 京都、○孝景 ─ ×細川成之
- 応仁元年 6月14日 京都・二条、○孝景 ─ ×武田信賢
- 応仁 2年 3月21日 京都・山科、○孝景 ─ ×骨皮道賢
【応仁の乱─越前】
- 文明 3年 6月10日 越前、○孝景 ─ ×甲斐方
- 文明 3年 7月21日 越前・河俣、×孝景 ─ ○甲斐方
- 文明 3年 8月24日 越前・鯖江外、○孝景 ─ ×甲斐方
- 文明 3年 9月11日 越前・清水谷、△孝景 ─ △池田勘解由左衛門尉(時忠か)
- 文明 4年 8月 6日 越前・府中、○孝景 ─ ×甲斐方(府中守護所落去)
- 文明 4年 8月 8日 越前・長崎、○孝景 ─ ×甲斐方
- 文明 5年 8月 8日 越前・樋山外、○孝景 ─ ×甲斐方
- 文明 6年 1月18日 越前・杣山、○孝景 ─ ×甲斐方
- 文明 7年 2月14日 越前・犬山、○孝景 ─ ×二宮方
- 文明 7年11月 3日 越前・井野、○孝景 ─ ×二宮左近将監・二宮駿河守
- 文明 7年12月 3日 越前・土橋、○孝景 ─ ×二宮方(土橋城落城)
[編集] 天下一の極悪人、天下悪事始業の張本
朝倉孝景は、先述のごとく公家や寺社の所領を多く奪い取った人物だった。
当時の権力層である「寺社」「公家」(寺社本所(じしゃほんじょ))にとって、正に仇敵だった。
彼の死後、それを聞いた公家により、「越前の朝倉孝景が死んだということだ。朝倉孝景は「天下一の極悪人」である。あのような男が死んだことは「近年まれに見る慶事」である」と書かれたほどである。