朝倉氏景 (8代当主)
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時代 | 室町時代~戦国時代 | |||
生誕 | 宝徳元年4月5日(1449年4月27日) | |||
死没 | 文明18年7月4日(1486年8月3日) | |||
改名 | 阿君(幼名)、氏景 | |||
別名 | 孫次郎、孫右衛門尉 | |||
戒名 | 安国寺殿子春宗孝大居士 | |||
氏族 | 朝倉氏 | |||
父母 | 孝景、朝倉将景娘 | |||
兄弟 | 氏景、景明、孫四郎、景総、教景(以千宗勝)、 時景、景儀、教景(宗滴) |
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妻 | 宝林慈珍大姉、 瑞渓妙祥大姉(尾張国織田孫左衛門の娘) |
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子 | 貞景(9代) |
朝倉 氏景(あさくら うじかげ、宝徳元年4月5日(1449年4月27日) - 文明18年7月4日(1486年8月3日))は、越前国の戦国大名で、朝倉氏の第8代当主。第7代当主・朝倉孝景(英林孝景)の嫡男で、母は朝倉将景の娘である円渓眞成大姉。幼名阿君(くまきみ)、通称孫次郎、孫右衛門尉。
[編集] 生涯
文明13年(1481年)、父の死により家督を継ぎ、越前平定に尽力した。とりわけ朝倉氏は父・孝景の代に細川勝元と手を組むことで斯波氏から領国越前国を奪った下克上の典型例であった。そのために旧主・斯波氏からはしばしば越前守護職の返還の訴訟が起きた。既に越前を実効支配している朝倉氏にとっては、もはや怖いものはないように見えたが、未だ室町幕府の権威は健在であった。足利将軍家にとって陪臣であり、外様でしかない朝倉氏に対して、主家は足利氏一門の中の有力守護家であり、訴訟を起こされ領国支配の大義名分を奪われれば、隣国からの介入を受けるは必至であった。なおかつ、かつては同じ斯波氏重臣として覇を競った甲斐・二宮両氏の軍勢の介入も受けており、氏景は主家に対抗する権威を以って朝倉氏の領国支配の安泰を図った。
手始めとして氏景は仏教勢力である平泉寺と巧みに結びつくことで、宗教勢力の強い越前支配を図った。さらに美濃の斎藤妙純の提案を受け入れ、足利将軍家との結びつきの強い旧主に対抗するために、かつては敵対関係にあった斯波義廉の子を名目上の守護として擁立した上で、足利将軍家の連枝鞍谷氏を継がせて名目上は鞍谷氏の領国とすることで、斯波氏の干渉の余地を奪った。旧主・斯波氏は足利一門の中でも名門中の名門であったが、鎌倉時代に既に分家した家柄であるのに対して、鞍谷氏は三代将軍 足利義満のご落胤を家祖に持ち、血筋の上では斯波氏よりも鞍谷氏の方が上であった。傀儡守護に推戴した斯波義廉の子に鞍谷氏の名跡を継承させることで、斯波氏の権威を圧倒したのである。氏景の奇策に斯波氏はおろか幕府も反対したが、朝倉氏の断行により既成事実化し、越前国の実効支配に不可欠な大義名分を確保した。
父の孝景の代に手に入れた守護の座であったが、領国の実効支配を維持するために名目上の守護職を足利氏の一門に継がせ傀儡とすることで朝倉氏の領国支配の大義名分を維持した。文明18年(1486年)7月4日、38歳で死去。その後は子の朝倉貞景が継いだ。