木下延俊
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木下 延俊(きのした のぶとし、1577年(天正5年) - 1642年2月6日(寛永19年1月7日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の武将(大名)で木下家定の三男。木下勝俊、木下利房の弟で小早川秀秋の兄。妻は細川幽斎の娘加賀。細川忠興は義兄にあたる。子に俊治、延次、娘(松平忠重室)、娘(木下利當室)。
父・家定や兄・勝俊、利房と共に豊臣秀吉に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には姫路城代2万5千石。義兄細川忠興との関係が深かったためか、兄弟の中で一人東軍につき戦後徳川家康から豊後国日出藩3万石を与えられた。
大坂の陣にも徳川方として参加した。
延俊の残した貴重な資料として『慶長日記』と呼ばれる彼の日記がある。慶長18年(1613年)の元旦から大晦までの一年間を一日も欠かさず記されたもので(実際の記載は延俊本人ではなく、家臣の祐筆)当時の大名の生活や翌年に迫った大坂の陣に至るまでの歴史的背景を詳しく知ることができる。
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