木暮洋
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木暮洋(こぐれ ひろし、1960年 - )は、1970年代の高校野球選手。六大学野球選手。
相生中学時代は目立つ選手ではなく、群馬県立桐生高等学校入学後も野球を続けることにためらいがあるほどであった。 特に同期だった阿久沢毅は県大会優勝投手であり、誰も木暮に期待をする者はいなかったという。
しかし、関口信行監督の合理的な指導と1927年夏に桐生中学(現桐生高等学校)を 初めて甲子園に導いた大先輩阿部精一の技術的な指導とによって着実に力をつけ、エースに成長。
2年生の夏は県ベスト8に留まるものの、秋大会で県優勝を果たし関東大会出場。関東でもベスト4まで勝ち進み 12年ぶりの甲子園出場を果たす。
春の選抜では初戦の豊見城高校戦で初回に1失点してから、続く岐阜高校戦、郡山高校戦を零封。 26イニング連続無失点の記録を打ち立てた。 準決勝で優勝した浜松商業高校に敗れるものの、ベスト4入り。 「西の津田(津田恒美)、東の木暮」と評された。
夏の甲子園も出場を果たし、優勝候補の一角に上げられ、初戦の膳所高等学校には18-0で快勝するも、続く県立岐阜商業戦で終盤に失点し0-3で敗退する。
当時は、ピンクレディーの「サウスポー」が流行していて、そのイメージでマスコミに取り上げられ、甲子園のアイドルとして女子学生に絶大な人気があった。
卒業後は、1年の浪人を経て早稲田大学教育学部に進学。硬式野球部に在籍し、六大学で通算17勝をあげた。 大学卒業後は社会人東芝に進むも、肩の怪我が癒えずに4年で野球を離れる。
現在は東芝三菱電機に勤務。野球とは縁のない生活をしている。
2005年の正月に母校を訪れ、OB交流戦に出場。県ナンバーワン投手と評されていた野口恭(現・中央大学)からヒットを放ち、非凡な野球センスを披露した。
[編集] 特集記事
高校野球 忘れじのヒーロー(ベースボール・マガジン社 平成17年9月15日発行)