本因坊道策
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本因坊 道策(ほんいんぼう どうさく、正保2年(1645年) - 元禄15年(1702年)3月26日。)は江戸時代の囲碁の棋士。四世本因坊生国石見国。本名は山崎三次郎。法名は日忠。名人碁所。
延宝5年(1677年)、三世道悦の跡を継ぎ四世本因坊となり、それと同時に名人碁所に就く。寛文8年(1668年)の安井算知の名人碁所就位時以降、碁所の地位は他の家元と実力、或いは政治工作で争われる事が多かったが、道策の名人碁所就位の時は他家からの異論は全くなかったと言われる。道策はそれ程卓抜した実力を持っていた。道策は圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称揚された。天和2年(1682年)には琉球の親雲上浜比賀に4子置かせて勝っている。
道策は手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出した。また、従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれる。丈和・秀策の後聖に対して、前聖と称される。史上最強の棋士として、道策の名を挙げる人は極めて多い。
名人を九段、名人上手間を八段、上手を七段とし、以下二段差を1子とする段位制を確立した。この段位制は1924年に日本棋院が設立されるまで使われていた。
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[編集] 生い立ち
石見国馬路(島根県大田市、旧邇摩郡仁摩町)に、父山崎七右衛門、母ハマの二男として生まれる。7歳の頃から母に囲碁を習い、14歳で算悦門に入る。
実弟の道砂は同じく算悦門下で、後に井上家を継いで3世井上因碩となった。
墓所は、京都の妙泉山寂光寺、東京の本妙寺、生家の山崎家の3箇所にある。生家には三次郎時代に愛用した磐石も残されている。
[編集] 後継者
道策には五虎と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩、星合八碩などの、優秀な弟子がいた(これに、外家で初の上手を許された吉和道玄を加えて「六天王」ということもある)。道策はまず道的を跡目に指名したが、これに桑原道節が反発、自分と勝負の上で跡目を決定してもらいたいと申し出た。しかし道策はこれを拒み、実弟の三世井上因碩(道砂)を説得して引退させ、道節を井上家四世に据えて納得させた。しかしこれほどの期待をかけた道的はわずか21歳で夭逝し、代わりに再跡目とした佐山策元もまた25歳で世を去った。そして策元の死後は跡目を立てなかった。これは2人の死のショックからというよりは、道知の成長に期待をかけたためといわれている。道知は道節の後見を得つつ成長し、無事本因坊家五世を継いで後に名人碁所になった。なお道知は道策の実子という説もある。
[編集] その他
- 道策は多くの新しい布石の考え方を導入したが、現在世界中で流行しているミニ中国流の打ち方もすでに試用している(対安井仙角二子局など)。このためミニ中国流を「道策流」と呼ぶこともある。
- 小林光一は道策に私淑しており、息子が生まれたら「道策」と名付けるか真剣に考えたことがあるという。
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