本因坊丈和
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本因坊 丈和(ほんいんぼう じょうわ、天明7年(1787年) - 弘化4年(1847年))は、江戸時代の棋士。十二世本因坊、名人碁所。本因坊元丈門下。元の姓は戸谷、後に葛野。
丈和の生地は明らかでなく、信濃、武蔵国、伊豆、江戸などの説がある。幼名は松之助。16歳で初段。文化4年(1807年)に庄内藩士長坂猪之助と二十一番碁を打ち(丈和定先)、12局目で先相先とした。その後33歳で六段。
文政10年(1827年)40歳の時、七段に進み、本因坊元丈の跡を継いで十二世本因坊となる。翌年八段。
1831年、名人碁所に就く。その際、丈和は不透明な陰謀をめぐらしたため後に禍根を残す事になった。(天保の内訌)
丈和のライバルである井上幻庵因碩は丈和を名人位から引き摺り下ろそうと、弟子の赤星因徹を丈和に挑ませる。もしこの対局で赤星が勝てば、丈和に名人の資格無しとして丈和を引き摺り下ろす算段であった。この対局で丈和は有名な「丈和の三妙手」を放ち、赤星を下した。対局中、赤星は血を吐きその後26歳の若さで死亡。ここからこの一局を「吐血の一局」と呼ぶ。これにより因碩の野望は砕いたものの、林元美の八段昇段の内約を破ったことの訴えなどがあって、天保10年(1839年)に碁所を返上して引退。元丈の子である丈策に家督を譲る。
丈和の碁は〝強力無双〟と呼ばれる激しい力碁が特徴で、道策の前聖に対して後聖と呼ばれる。明治中頃、名人就任に関する一連の醜聞で一時期丈和の評価が落ち、秀策に後聖の名を奪われた事があった。しかし現在では丈和は認められ囲碁の三棋聖の一人として、史上最強棋士候補の一人として確固たる地位を得ている。
長男の梅太郎は後の12世井上節山因碩、三男は明治期方円社2代目社長の中川亀三郎。長女はなは本因坊秀策に嫁いだ。
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