本多正氏
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時代 | 安土桃山時代 | |||
生誕 | 元亀元年(1570年) | |||
死没 | 文禄4年(1595年) | |||
別名 | 平四郎(通称) | |||
氏族 | 本多氏 | |||
父母 | 父:本多正重 | |||
兄弟 | 本多正氏、本多正包 |
元亀元年(1570年)、本多正重の長男として生まれる。天正16年(1588年)から徳川家康の近習として仕え、陸奥の九戸政実攻め、朝鮮出兵における肥前名護屋城詰めなどに随従した。しかし文禄元年(1592年)、徳川家から出奔している。理由は諸説あって定かではないが、父と同じようにその頑固な性格を疎まれたためとされている。
その後、羽田正親と懇意になり、正親が豊臣秀次の重臣だったことから、その推挙を受けて秀次の重臣となった。文禄4年(1595年)、秀次事件により秀次が自害すると、正親と共に殉死した。享年26。