杉浦重剛
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杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、安政2年3月3日(1855年4月19日)- 大正13年(1924年)2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家。幼名は謙次郎。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
[編集] 経歴
27歳で文部省と東京大学に勤める。その間、東大予備門(のちの一高)校長にあり、また東京英語学校(日本中学)を創立する。のち辞職し、読売・朝日新聞の社説を担当する。「日本人」や新聞「日本」の刊行に力を尽くす。それらによって国粋主義を主張し、当時の社会に影響を波及させる。1889年(明治22年)には日本倶楽部をつくり、大隈重信の不平等条約改正案に反対する。翌年1890年(明治22年)第1回衆議院議員総選挙に大成会から出馬し当選。しかし翌年に辞職した。
その後は子弟の養成と共に東京文学院を設立し、以後も国学院学監や東亜同文書院院長、東宮御学問所御用掛などを歴任。官学崇拝も強く、当時の官公立中等教育のメッカである府立一中にも足を運び、「本校は帝都の第一中学であるのみならず、帝国の第一中学である」など講演にても国家の権威を高めることに尽力していた。1924年(大正13年)死去。
[編集] 参考文献
- 猪狩史山 『杉浦重剛先生小伝』 1929年