松下重綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松下 重綱(まつした しげつな、1579年(天正7年) - 1627年11月9日(寛永4年10月2日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。
かつて豊臣秀吉が少年だった頃、主君として仕えていた松下之綱の長男である。重綱はその経緯から秀吉に仕え、豊臣秀次に属せられた。天正16年(1588年)、右兵衛尉となる。慶長3年(1598年)、父の後を継いで遠江久野1万6000石の領主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参戦し、石田三成軍と戦って活躍した。しかし慶長8年(1603年)、無断で城の石垣を築いたという罪により常陸国小張に移封させられた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、徳川方の本多忠朝(本多忠勝の子で、本多忠政の弟)に属して戦い、慶長20年(1615年)の夏の陣では大いに活躍した。その功績により、元和2年(1616年)に2万800石に加増された。元和9年(1623年)、下野国鳥山藩へ移封。
寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、嘉明の娘婿であった重綱はその経緯から陸奥国二本松藩5万石に加増移封され、嘉明の与力大名となった。同年10月2日、49歳で死去した。法名は州伝院長厳長洋大居士。墓地は福島県二本松市の州伝寺。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|