松平吉邦
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松平 吉邦(まつだいら よしくに、延宝9年1月12日(1681年3月2日) - 享保6年12月4日(1722年1月20日))は、越前福井藩の第6代藩主。父は松平昌勝(吉邦は六男)。母は秋山氏。正室は中納言・日野西国豊の娘。側室に辻氏。子に勝姫(松平宗矩室)。官位は従四位下、左近衛権少将。
延宝9年(1681年)正月12日、江戸で生まれる。幼名は勝千代。元禄14年(1701年)3月5日、先代藩主の松平吉品の養嗣子となる。宝永7年(1710年)7月5日、吉品の隠居により後を継いだ。藩政においては勘定奉行の田中条左衛門を罷免して人事を一新し、さらに経費節減や倹約を推進し、民政にも尽力した。特に民政では領民に対して善政を敷いて大いに慕われ、倹約においても時の将軍・徳川吉宗から大いに賞賛されたと言われている。また、大の相撲好きであり、相撲に関しての多くの逸話が残っている。享保6年(1721年)12月4日、41歳で死去し、後を兄の松平宗昌が継いだ。墓所:福井県の運正寺、東京都品川区南品川の海安寺。
その死は、領民に大いに悲しまれたと言われている。
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