松平宗矩
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松平 宗矩(まつだいら むねのり)は、越前福井藩の第8代藩主。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 正徳5年3月26日(1715年4月29日) | |||
死没 | 寛延2年10月21日(1749年11月30日) | |||
別名 | 千二郎(幼名) | |||
戒名 | 徳正院 | |||
墓所 | 福井県福井市の運正寺 東京都品川区南品川の海安寺 |
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官位 | 従四位下、左近衛権少将 | |||
藩 | 越前福井藩主 | |||
氏族 | 越前松平氏 | |||
父母 | 父:松平知清、母:本多氏 養父:松平宗昌 |
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兄弟 | 松平明矩、松平宗矩、松平長煕 | |||
妻 | 正室:松平吉邦の娘・勝姫 | |||
子 | 実子なし、養子:松平重昌 |
正徳5年(1715年)3月26日、結城秀康の5男・松平直基の孫・松平知清の次男として生まれる。享保6年(1721年)12月11日、第7代藩主・松平宗昌の養子となる。享保9年(1724年)、宗昌の死去により家督を継いで藩主となる。享保11年(1726年)12月に元服し、徳川吉宗の「宗」を賜って宗矩を名乗る。
藩政においては、災害が相次いで悪化する藩財政を再建するために倹約令を出した。その一方で災害に苦しむ領民の救済に尽力し、善政に尽くしたと言われている。寛延2年(1749年)10月21日に死去。享年35。
後を養子の重昌が継いだ。
「徳正君御出語」においては、領民・家臣から慕われた名君であると記されている。
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