松平綱昌
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松平 綱昌(まつだいら つなまさ、1661年6月4日(寛文元年5月8日)-1699年3月12日(元禄12年2月11日))は、越前福井藩の第4代藩主。父は松平昌勝(綱昌は長男)。母は松平定行の娘・菊姫。正室は飛鳥井雅直の娘・清姫。側室に竹村氏。子に長教、娘(烏丸光栄室)。官位は従四位下、左近衛権少将。
寛文元年(1661年)5月8日、江戸に生まれる。延宝2年(1674年)7月3日、先代藩主・松平昌親の養嗣子となる。これは昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内においても昌親に対する反発があったため、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として迎えたらしい。そして延宝4年(1676年)7月21日、昌親から家督を譲られて藩主となった。しかし綱昌は延宝9年(1681年)3月に理由も無く側近を殺害するなど、次第に奇怪な行動を取り始めた。治世においても飢饉のために多数の餓死者を出した。貞享2年(1685年)には将軍に対して登城もしなかったため、貞享3年(1686年)閏3月6日、遂に幕府は綱昌の狂気を理由に改易を申し渡したのである。ただし、結城秀康以来の名族である越前松平家を取り潰すわけにもいかず、幕府は昌親に新たに25万石を与えて存続を許したのである。
綱昌はその後、江戸鳥越に蟄居となり、幕府から給金を支給されながら元禄12年(1699年)2月11日、39歳で死去した。
綱昌が奇怪な行動を取ったのは、前藩主である昌親の影響力が依然として保持されており、綱昌の思い通りに藩政が動かせなかったためとも言われている。また、昌親も次第に綱昌を疎ましく思い始め、その失脚を策動していたとも言われている。
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