松平定行
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松平 定行(まつだいら さだゆき、1584年(天正12年) - 1668年11月23日(寛文8年10月19日))は江戸時代初期の大名。掛川藩2代藩主のち伊予松山藩初代藩主。官名は従四位下、河内守・隠岐守、侍従。
父は松平隠岐守定勝。母は内室松源院殿(奥平氏の女・二之丸殿)。徳川家康は伯父にあたる。家康の母・於大の方は祖母。
[編集] 経歴
慶長6年(1601年)、伯父・家康に初めて拝謁。同7年(1602年)、従五位下河内守に任ぜられる。次男であるが近江国蒲生郡の内2千石を賜う。翌年、兄・定吉の卒去により嫡子となる。同10年(1605年)9月、家康の命により島津家久の養女を室(のちの長寿院殿)とする。 慶長12年(1607年)、父定勝より掛川城3万石を譲られ、大名となる。大坂冬の陣、夏の陣では父定勝とともに伏見城を警衛する。寛永元年(1624年)、父定勝の卒去により遺領桑名藩11万石を継承。3年後、隠岐守に転任し従四位下に昇進。同11年(1634年)、甥・徳川家光の上洛に際し、桑名より供奉、家光の参内前に侍従に叙任。家光の参内では騎馬の供奉をつとめる。
同12年(1635年)、家光の命により4万石の加増をもって伊予松山藩に移る。中国四国では初の家門入部で、外様への牽制と警戒のための処置であったという。同16年(1639年)には松山城の天守閣を5層から3層に改築。正保元年(1644年)、長崎探題に就任。異国船との交渉にあたり、鎖国制度の完成に貢献する。家光薨去後の慶安4年(1651年)、幼将軍徳川家綱を補佐するため溜之間詰に任ぜられる。同席は保科正之(家綱叔父)、松平頼重(家光従弟)、井伊直澄。万治元年(1658年)、72歳で隠居。家督を嫡男定頼に譲って松山東野御殿に退き、松山(しょうざん)と称した(のちに勝山と改める)。これにより勝山公と奉称された。東野御殿では俳諧や茶道に親しむなど悠々自適の生活を送り、寛文8年(1668年)、東野御殿にて卒去。享年82。眞常院殿前侍従道賢勝山大居士と贈られる。遺骸は松山祝谷常信寺に葬られ、壮大な霊廟が造営された。
前室は島津家久の養女(実父島津朝久)。2代定頼の生母。元和4年(1618年)卒去。長寿院殿月窓貞泉大姉と贈られる。桑名長寿院に葬られ、定行の移封にともない菩提を弔うため松山城下に長寿院(のちの法龍寺)を造営、位牌が祀られる。
継室は島津家久の養女(実父伊集院忠真)、長寿院殿の養妹。明暦4年(1658年)、江戸で卒去。江戸麻布曹渓寺で火葬、蓮香院殿湖月貞鑑大姉と贈られる。遺骨が松山長寿院(法龍寺)に贈られ、浄蓮院殿湖月貞鑑大姉と改めて贈り、埋葬される。
子に松平定頼、娘(酒井忠朝室)、娘(堀田正信室)、娘(松平昌勝室)らがいる。
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