松平長親
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松平 長親(まつだいら ながちか、文明5年(1473年) - 天文13年8月22日(1544年9月9日))は、松平氏の第5代当主。松平親忠の子。名は長忠とも。官位は従五位。蔵人。左京亮。出雲守。
幼名は次郎三郎。竹千代。1496年、父の隠居で家督を継いだ。しかしこの頃、隣国の今川氏親からの攻撃を受けるようになり、長親は苦戦を強いられていた。永正3年、当時氏親の家臣であった伊勢長氏(北条早雲)と戦ったこともある。しかし長親は優れた武将で、今川軍の攻撃をよくしのいだ。また、連歌などの教養にも秀でていたと言う。長親は三河国の国人領主であった松平氏を戦国大名として飛躍させるための基礎を築いた人物であると考えられている。
1506年、子の松平信忠に家督を譲って隠居している。信忠は暗愚だったのを知らなかったのか、それとも長親は1501年の時点ですでに入道していたためなのか、この時点での隠居は早すぎると思われるが、なぜ隠居したのかはわからない。その後も信忠、松平清康の後見人として今川軍と戦っている。
晩年は息子信定を寵愛する余り、清康の死後に後を継いだ松平広忠が信定によって岡崎城から追われた際に何も手を打たなかったために家臣団の失望を買った。後に広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(長親から見れば、孫の子(玄孫)にあたる)に自分や清康と同じ「竹千代」と命名するように命じている。後の徳川家康である。
天文13年8月22日、死去。享年72。法号:悼舟院殿一閑道閲。
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