松本彦七郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本彦七郎(まつもとひこしちろう、1887年6月9日-1975年9月1日)は栃木県小山市生まれの動物学者、地質学者、古生物学者、人類学者、考古学者、博物学者。仙台湾周辺の貝塚において層位学的な発掘調査を行い、科学的・実証的な発掘調査法と編年学の基礎をつくった。戦後、花泉遺跡の調査を行い、ハナイズミモリウシ(Lephobison hanaizumiensis)の命名者としても著名である。著作は、森羅万象に及ぶ知の巨人である。惜しむらくは、余りの巨人さゆえに、同時代人の理解と共鳴を十分に得ることができなかったことである。
目次 |
[編集] 主な業績
東京帝国大学理科大学動物学科卒業後、大学院・助手を経て、1914年東北帝国大学理科大学地質鉱物学教室講師、1920年助教授となり、古生物学研究のため、英米独に留学。留学中に、クモヒトデの研究で帝国学士院賞を受賞。帰国後、1922年に教授となり、地質学第三講座の担当となり、後に古生物学講座を担当することになった。 岩手県の獺沢貝塚、宮城県の大木囲貝塚や里浜貝塚、宝ヶ峯遺跡などでの発掘では、層位を細かく分けて新旧関係を考察する層位学的な調査方法を実践し、出土する遺物の違いが同時代の種族の差異によるものではなく、時代の新旧関係によるものであることを明らかとした。1919年にはじめて土器型式による縄文土器編年を示し、山内清男の縄文時代編年研究に多大な影響を与えた。
[編集] その後
1933年3月31日、文官分限令第1項第4号により休職を命じられ、1935年3月30日に休職満期となり、退官させられた。戦後、仙台市内の東北高等学校の教員を務める傍ら、岩手県花泉遺跡の膨大な獣骨が元筆頭助手で同じく東北大学を追われた三島学園講師曾根廣によって持ち込まれ、厳冬の1954年2月に遺跡の発掘調査を決行する。オオツノシカの角を掘り出し、「花泉で死に花を咲かせてみせる」を信念とし、再び研究に没頭する。1955年に福島県立医科大学進学過程教授として復帰。1966年9月にはワイマール大学にて開催された第2回国際地質学古生物学大会において、日本の旧石器時代に関する講演を行った。同年11月、勲三等旭日章授与。1975年9月1日逝去。享年89。
[編集] その後のその後
1985年度に花泉町教育委員会によって「花泉遺跡発掘調査推進計画」が策定され、1985~1988年にかけて発掘調査が実施され、1993年に『花泉遺跡』調査報告書(花泉遺跡発掘調査団)が刊行されている。
[編集] 主な論文
- 「蛇尾綱発達史並に該綱新分類法の一端」(『動物学雑誌』25巻300号 1913)
- 「蛇尾綱新分類法」(『動物学雑誌』27巻322~326号 1915)
- 「ステゴドン 欧州に産するか」(『動物学雑誌』28巻329号 1916)
- 「ピルトダウン頭骨に対するオスボーンの見解」(『動物学雑誌』28巻333号 1916)
- 「日本産クモヒトデ類総図説(英文)」(『東京帝国大学理科大学紀要』 1917)
- 「予の新石器時代観」(『動物学雑誌』29巻342号 1917)
- 「獺沢介塚の人骨」(『動物学雑誌』29巻342号 1917)
- 「日本在来馬の新特徴」(『動物学雑誌』29巻346号 1917)
- 「アイヌの鼻孔及口蓋」(『動物学雑誌』30巻354号 1918)
- 「北海道に類弥生式土器」(『人類学雑誌』33-8 1918)
- 「日本先史人類論」(『歴史と地理』3-2 1919)
- 「陸前国宝ヶ峯遺跡の分層的小発掘成績」(『人類学雑誌』34-5 1919)
- 「宮戸嶋里浜及気仙郡獺沢介塚の土器、附、特に土器紋様論」(『現代之科学』7-5・6 1919)
- 「宮戸島里浜介塚の分層的発掘成績」(『人類学雑誌』34-9・10 1919)
- 「仙台附近のナベウサギ 附日本兎の学名」(『動物学雑誌』32巻376号 1920)
- 「Notes of the Stone Age People of Japan」(『American Anthropologist』N.S.,23 1921)
- 「二三石器時代遺跡に於ける抜歯風習の有無及様式に就て」(『人類学雑誌』37-8 1922)
- 「陸前国桃生郡小野村川下り響介塚調査報告」(『東北帝国大学理学部地質学古生物学教室研究邦文報告』7・8 1929)
- 「陸前国登米郡南方村青島介塚調査報告」(『東北帝国大学理学部地質学古生物学教室研究邦文報告』9 1930)
- 「陸前国名取郡西多賀村の三石器時代乃至直後遺蹟(1)~(2)」(『考古学雑誌』20-3~4 1930)
- 「松島町の興味ある二三考古遺蹟(1)~(2)」(『仙台郷土研究』9-2~3 1939)
- 「松島町なる尚ほ若干の考古遺跡(1)~(5)」(『仙台郷土研究』9-8~12 1939)
- 『仙台附近の茸 東北菌類図譜』(仙台郷土史叢書 1953)
- 「陸中国西磐井郡花泉金森発見の鮮新紀末葉化石床の哺乳類」(森一と共著『動物学雑誌』65 1956)
- 「陸中国西磐井郡花泉金森発見の鮮新紀末葉化石床兼古人類遺跡出土乃至遺痕跡」(森一・丸井佳寿子と共著『自然科学と博物館』25-7・8 1958)
- 「仙台市上部鮮新上部埋木層群関係出土の石器」(森一・丸井佳寿子と共著『自然科学と博物館』26-11・12 1959)
- 「On the Discovery of the Upper Pliocene Fossiliferous and Culture-bearing Bed at Kanamori,Hanaizumi Town,Province of Rikuchu」(『Bull.Nat.Sci.Mus.,S.(東京国立科学博物館紀要)』4-3 1959)
- 「下部鮮新紀氷河と天王寺植物群」(森一・丸井佳寿子と共著『自然科学と博物館』27-9・10 1960)
- 「花泉含化石層およびその上下層の時代論」(『自然科学と博物館』30-9・10 1963)
- 『誤られた日本産巨鹿類』(1975)
[編集] 歌集・随筆
- 『野に立ちて』(1937)
人並を 外るると神に 偽ると 何れを重き 罪と宣まう こがらしの 風上迥(はる)く 目も眩(はゆ)き 分水嶺に かかる綿ぐも
- 『星の花園(欧洲二十日旅)』(1970)
アルペンの エリカの花も しのばまく み国は萩ぞ 今盛りなる
- 「反故籠」『南光学園八十年史』(東北高等学校)(1974)
[編集] さらにその後
松本彦七郎の遺族によって、「陰湿な業績抹殺と、いわれなき理由による公職からの追放の実態とを明らかにし、父の業績の正当な評価と、名誉回復とを目的」に、『理性と狂気の狭間で 前・後編 /副題 松本彦七郎東北大学理学部教授は如何にして、不当に強制退職処分に付せられたか。』(松本子良 2003)が自費出版されている。