森井忠良
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森井 忠良(もりい ちゅうりょう、男性、1929年7月25日 - )は、昭和・平成期の政治家。元厚生大臣。1999年勲二等旭日重光章受章。
広島県呉市生まれ。1953年早稲田大学法学部を卒業、日本電信電話公社入社。
全電通呉分会委員長、呉市議、広島県議を経て、1969年12月衆院選旧広島2区に日本社会党から出馬し初当選。旧広島2区は谷川和穂、池田行彦、中川秀直ら、有力政治家がひしめく全国有数の激戦区だったが以後当選7回。
1986年7月衆参同日選で落選。1990年2月衆院選に返り咲き当選を果たし社会党も善戦した。
1993年念願の政権交代が実現。
1994年4月細川内閣が退陣し羽田内閣が成立するも村山富市委員長ら執行部の連立与党から離脱表明に反発。6月社会党は、自民党、新党さきがけとの政権協議で村山首班などで合意し村山連立内閣が発足し社会党は、自民党と連立を組む(この連立が長年対立してきた自民党復帰を手助けした事になると後悔する社会党議員の中に森井がいた)。一方で党役員人事で建設大臣に野坂浩賢前国対委員長の後任の党国会対策委員長に就任。
1995年4月の地方選、7月の参院選に社会党が立て続きに惨敗し村山首相の進退問題に発展するも、結局政権維持を確認し改造内閣で厚生大臣に就任。在任中、脳死及び臓器移植法案に反対に立場を表明していた。しかし大臣就任は引退前の花道の感が強かった。ちなみに森井の次の厚生大臣が菅直人で、菅はこの厚生大臣時代に薬害エイズ事件の対応で大きく名前を売った。
1996年1月村山首相が退陣で厚相辞任した。また橋本龍太郎新首相の誕生で社会党から党名変更した社会民主党に参加。8月さきがけの鳩山由紀夫代表幹事と菅直人厚相の鳩菅新党構想が囁かれ、社民党内でも田邊誠元委員長や横路孝弘前北海道知事を軸に新党構想に動くと、森井は9月社民党を離党し民主党結成に参加。10月衆院選に広島5区に民主党で出馬するも自民党池田行彦外相に完敗し政界引退を余儀なくされた。
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