森長記
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森 長記(もり ながのり、貞享4年6月16日(1687年7月24日) - 明和4年5月4日(1767年5月31日))は、播磨国三日月藩の第2代藩主。父は初代藩主・森長俊(長記は長男)。母は浄心院。官位は従五位下、安芸守。
1687年6月16日、作州にて生まれる。1715年7月27日、父の隠居により後を継いだ。藩政に見るところは無い。しかし性格的に面白い藩主であった。
長記は泰平の世の中では珍しいほど自由奔放に振舞う藩主であった。だからといって暗愚とか馬鹿殿だったわけではない。いわゆる藩とか体制に縛られるのが大嫌いな性格であった。そのため藩政は重臣に任せて、長記は供を連れることもほとんどせずに、まるで無頼のように山や川を駆け回っては狩猟を行って獲物を狩り、屋敷に帰還するのはいつも明朝頃だったとまで言われている。このため、世間からは「森の夜鷲」とまで称された。一説には、箱根の関所をたった一人で午前2時に通り過ぎたこともあると言われている。しかしこのように無頼な生活を遂げたことが、逆に領民などの下情に通じることにもなり、当時の諸大名の中では最も下情に通じた大名とも言われた。
1739年6月26日、五男の森俊春に家督を譲って隠居し、1767年5月4日に81歳で死去した。墓所は東京都大田区池上の本行寺。
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