楊震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の太尉。字は伯起。楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉らの父。
[編集] 概要
[編集] 出生
弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身で、先祖は前漢初期の赤泉侯の楊喜とその玄孫の安平侯の楊敞(司馬遷の女婿)で、父は銜環の故事で有名な楊宝(楊寶とも)である。楊震は「四世太尉、徳業相継」の第一代に当たる人物。
楊震は後漢初年に刺史や太守を歴任し、清廉な政治家として名を成した人物である。『後漢書』の『楊震伝』には賄賂を拒絶した際の有名な「天知る、地知る、汝知る、我知る」が掲載されている。つまり、彼は天子の安帝に直言し、安帝の逆鱗に触れ、さらに宦官の樊豊らの讒言もあり、太尉を懲戒免職され、彼は洛陽城内の西面にある夕陽亭で毒を仰いで「わが事は尽きた!」と叫んで無念の自決を遂げたのである。
名門の政治家に生まれた楊震は『後漢書』では「自震至彪、四世太尉」の一文で紹介されている。これは楊震、楊秉(楊震の三男で嫡子)、臨晋侯の楊賜、楊彪と子孫四代に亘って宰相に任じられたことを示し、一般には「四世三公」とも称された。
[編集] 弘農楊氏のその後
楊彪の少子である楊脩以来は不詳だが、楊震の末子の楊奉の孫である楊衆(父は楊專文という)、楊奇、楊亮の世襲を経て、遥か後世になって楊亮の末孫とされる北周の柱国だった楊敷、そしてその子で隋の大臣であり、越石公の楊素・楊玄感父子は『隋書』によると弘農郡華陰県の人で名門だったという。つまり、この楊父子が楊震の末裔の可能性が高いともいわれる。または楊震の長男の楊牧は楊統、楊馥の二子がいた。楊統の子に楊琦がおり、その子孫が楊素ともいわれるが真偽は不明である。