武井昭夫
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武井 昭夫(たけい てるお、1927年1月29日 - )は、全学連初代委員長、文芸評論家。神奈川県横浜市出身。
東京大学在学中に学生運動に身を投じる。全学連結成に参画し、初代委員長に就任した。1952年、当時「所感派」「国際派」などに分裂していた日本共産党の東大支部において、当時「国際派」だった不破哲三らに対して、全学連武井グループは「警察のスパイ」の疑いで「査問」を行った。「査問」は実質的には激しいリンチとなり、武井自らが先頭きって暴行した、と安東仁兵衛は著書『戦後日本共産党私記』で証言している。不破はとりわけ激しく殴られ、顔が二倍に膨れ上がるほどだったという。
層としての学生運動論を唱え、学生は労働者階級の指導を受けなくとも、階級闘争の主体たり得ると主張。その後、新日本文学会に加入し、戦争責任などで古い世代を批判する急先鋒にたつ。九州から上京して新日本文学会の事務局にいた大西巨人らとともに、新日本文学会の中心的な存在となる。戦争責任問題で、吉本隆明とともに『文学者の戦争責任』を上梓し、旧プロレタリア文学出身の作家たちを批判した。日本共産党員だったが、1958年の第7回党大会での綱領論議のころから、当時の指導部と対立を深め、1960年の安保闘争のときに、党の政策に反対する声明「さしあたって、これだけは」を谷川雁たちとともに発表し、規律違反として除名されている。
1964年の新日本文学会の第11回大会にあたって、会の事務局長をつとめていた彼は、事務局長の名で発表する幹事会報告に、部分的核実験禁止条約への肯定的評価を盛り込むなど、当時の文学運動内部にあった意見の相違をあえてクローズアップし、新日本文学会からの共産党の影響を排除しようとした。そして、大会で報告に反対の意見書を出した江口渙たちを大会後に除籍する先頭に立った。しかし、その後は、1970年には新日本文学会からも離れ、政治党派「活動家集団『思想運動』」(機関紙:『思想運動』、機関誌:「社会評論」、発行:土曜美術社出版販売)を組織した。
政治党派「思想運動」は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの「既成社会主義体制」の全面的支持に近い立場をとり続けている。2002年に北朝鮮金体制による「日本人拉致」を金正日が認めた際には、武井は機関紙上において「共和国は拉致しただけだが、日帝は朝鮮女性を拉致した上に強姦した」と述べている。
[編集] 主な著書
- 層としての学生運動
- 武井昭夫批評集
- 文学者の戦争責任
- わたしの戦後
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