水谷縫次
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水谷 縫次(みずたに ぬいじ、弘化3年(1846年) - 明治17年(1884年)11月27日)は、囲碁の棋士。伊予国出身、方円社に所属、七段。ほうじとも読む。明治初期に本因坊秀甫に次ぐ実力を持ち、方円社四天王にも数えられ将来を期待されたが、38歳で死去。
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[編集] 経歴
伊予国大島椋名村の代々医者の家に生まれる。7歳の時に今治城主松平壱岐守勝吉御前で近習の武士と対局するなど、天才少年として知られる。13歳の時、本因坊秀策が因島に帰郷した際に、父に連れられて四子(2局)、三子で対局して圧勝。秀策は上京を勧めるが、病弱であり医師の道に進ませるという理由で父に断られる。
その後は近隣で賭碁師として鳴らし、明治維新後は小学校の代用教員などを勤めた。方円社を設立した村瀬秀甫に再三招聘され、明治13年(1980年)に上京して方円社入社、四段(方円社6級)を認められる。すぐに頭角を現し、五段、明治16年には六段(4級)と昇段。秀甫に対してはただ一人先相先の手合に進み、事実上のナンバー2となる。明治16年の渋沢栄一別宅で行われた方円社定式手合での巌崎健造との対局では、130手目の妙手などにより勝利し、この手を見た秀甫が大変に喜び、観戦者からも拍手が起こったと伝えられている。
明治17年(1884年)に七段昇段の話が出た際に高橋杵三郎から異義が出て、十番碁を打つ(高橋先相先)。第1局から縫次が4連勝して先に打ち込んだが、十番碁の前に高橋勝ちが1局あるとして手直りを承知せず、その後の6局は先番を入れあって2勝4敗となり、昇段はならなかった。その後肺病が進み、この年の11月に没。わずか4年あまりの棋士としての生涯となった。追悼七段。
碁は長考派であった。風貌は撫で肩のおちょぼ口と林文子が評しており、また自信家で性格温厚であったと言われる。納棺で死装束に着替えさせる際、賭碁師の時代の出入りによると思われる刀傷が体中にあった。秀甫の追悼句「片枝の頼みも折れて松の雪」。
[編集] 代表局
- 明治16年(1983年)、巌崎健造(先)との対戦。130手目の白☆の手が、後のヨセの得を残す妙手とされた。この後、黒A、白Bと進み、170手白中押勝。
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[編集] 参考文献
- 小堀啓爾、高木祥一「夭逝した棋士たち(第11回)水谷縫次」(「棋道」誌1998年11月号)
- 相場一宏、福井正明「碁界黄金の十九世紀(第29回)」(「碁ワールド」誌 2004年11月号)
- 福井正明「囲碁史探偵が行く(24)碁界にもいじめがあった」(「碁ワールド」誌2006年12月号)