永倉万治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永倉万治(ながくら まんじ、1948年1月27日 - 2000年10月5日)は、日本の作家。本名は長倉恭一。埼玉県出身。立教高等学校(現:立教新座高等学校)卒業、立教大学経済学部在学中に劇団「東京キッドブラザース」の公演に参加したが、その後大学を中退した。そして、放送作家、雑誌の編集や広告プランナー等を経験した。
「永倉万治」のペンネームは、1984年の「小説寄席芸人伝」より用いているものであるが、1998年頃に「万」の字を「萬」に改めた。
1989年には、「アニバーサリー・ソング」で講談社エッセイ賞を受賞したが、ラジオ出演へ向かう途中で脳いっ血に倒れ、これ以後リハビリに励んだ。この時の入退院の経緯はNHKで『父帰る』のタイトルでドラマ化された(主演・うじきつよし)。
彼が劇団にいた時代をもとに描かれた「黄金バット」の冒頭で、病床にある中で自叙伝的なものを書きたくなったということが述べられている。小説は自叙伝的な作品もあるが、男女の「大人の恋」を描いたもの、サラリーマンの心境を描いた作品や、リストラ後も楽しく生きる男の姿を描いた作品などもある。
2000年に再び脳幹出血で倒れ、この世を去った。リスト最後の「ぼろぼろ三銃士」の後半は、後述のように夫人の有子氏の手によるものである。
目次 |
[編集] 作品
雑誌編集者であった頃に本名や無記名、イニシャルにて執筆された作品が多数存在する。また、夫人で、万治氏の執筆活動を助けた永倉有子氏の万治氏との生活を描いた作品「万治クン」も出版された。
[編集] 「永倉万治」名
- 「小説寄席芸人伝」(作/古谷三敏)(小学館・1984年)
- 「この頃は、めっきりラブレター」(講談社・1985年)
- 「新・昭和30年代通信」(小学館・1986年)
- 「東京デート漂流」(講談社・1986年)
- 「東京恋愛事情」(筑摩書房・1987年)
- 「いけない観光」(翻訳/M・ロンドン著)(主婦の友社・1987年)
- 「屋根にのぼれば、吠えたくなって」(毎日新聞社・1988年)
- 「ジェーンの朝とキティの夜」(角川書店・1989年)
- 「みんなアフリカ」(講談社・1989年)
- 「アニバーサリー・ソング」(立風書房・1989年、講談社エッセイ賞受賞)
- 「とげぬき地蔵通信」(ダイナミックセラーズ・1989年)
- 「ポワ―ル・ウィリアムスに関する20点と70点の思い出」(河出書房新社・1989年)
- 「女房のいない週末」(小学館・1989年)
- 「星座はめぐる」(TBSブリタニカ・1990年)
- 「陽差しの関係」(講談社・1990年)
- 「アナタの年頃」(講談社・1991年)
- 「ラスト・ワルツ」(角川書店・1991年)
- 「誘惑の十六幕」(マガジンハウス・1992年・共著)
- 「大熱血闘病記」(角川書店・1992年)
- 「荒木のおばさん」(講談社・1992年)
- 「結婚しよう」(新潮社・1993年)
- 「晴れた空、そよぐ風」(PHP研究所・1993年)
- 「移動遊園地」(中央公論社・1993年)
- 「武蔵野S町物語」(河出書房新社・1994年)
- 「家族を幸せにする死に方」(祥伝社・1994年・監修)
- 「黄金バット」(講談社・1995年)
- 「おけら」(文藝春秋・1996年)
- 「四重奏」(角川書店・1996年)
- 「大青春。」(主婦の友社・1996年)
- 「二人でボサノバ」(主婦の友社・1996年)
- 「食・後・は・眠・い」(新潮社・1996年)
- 「二丁拳銃でドカン!」(勁文社・1996年)
- 「フルネルソン」(講談社・1997年)
- 「男はみんなギックリ腰」(集英社・1997年)
- 「大復活」(講談社・1997年)
- 「満月男の優雅な遍歴」(光文社・1998年)
- 「ポチャポチャの女」(実業之日本社・1998年)
- 「どいつもこいつも」(新潮社・1998年)
[編集] 「永倉萬治」名
- 「インポテンス」(講談社・1998年)
- 「あなたの隣の大切な人」(青春出版社1999年)
- 「アルマジロの日々」(幻冬舎・2000年)
- 「人の気も知らないで」(実業之日本社・2000年)
- 「あぁ、結婚」(集英社・2000年)
- 「「これでおしまい」」(集英社・2001年)
- 「ぼろぼろ三銃士」(実業之日本社・2001年・共著)
「これでおしまい」は1997年~1999年の雑誌に掲載された短編を集めた単行本である。萬治氏は「ぼろぼろ三銃士」の執筆中に亡くなる。