永暦帝
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永暦帝(えいれきてい、1623年-1661年)は、中国の明(南明)王朝事実上の最後の皇帝。姓は朱、諱は由榔。万暦帝の孫で、明王朝最後の皇帝・崇禎帝の従兄に当たる。皇位に即位する前は、永明王の地位にあった(在位:1647年-1661年)。
1643年、明末期の混乱から逃れるために父と共に広西へ逃亡した。その直後、父と兄が死去したため、桂王となる。1644年、李自成の反乱で崇禎帝が自殺して明が滅亡すると、唐王や福王と協力して明の遺臣による政権を築き上げた。唐王が清軍に捕らえられると肇慶(現在の広東省)に逃れて皇帝として即位し、永暦と改元した。
その後は鄭成功の協力のもと、一時は広東省から広西、貴州、雲南を支配下に治めたが、やがて清軍による猛攻が開始されて支配地を次々と奪われ、1650年に桂林が落とされると、華南各地を放浪した。1659年にはビルマ(現在のミャンマー)に逃亡したが、このとき永暦帝に従った家臣はわずか650人程度に過ぎなかったと言われるまでに落ちぶれていた。しかしそこも、清に従う漢族の将軍・呉三桂の猛攻に遭い、清軍の勢威を恐れたビルマ王によって清軍に身柄を渡されてしまった。そして同年、一族もろとも雲南で殺害されてしまい、ここに明の皇族は断絶したのである。
永暦帝はキリスト教に造詣が深く、ローマ教皇にも使節を送ったことがあると言われている。しかし、明が末期状態にあるときにそのようなことをしても、意味はほとんど成さなかった。