永田洋子
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永田 洋子(ながた ひろこ、1945年2月8日 - )は、新左翼活動家。連合赤軍中央委員会副委員長を務めた。同志へのリンチ殺人で死刑が確定している。
[編集] 経歴
東京都出身。調布学園高等学校を経て共立薬科大学在学中に、日本共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織に参加。後に日本共産党 (左派)への潜入戦術を経て日本共産党革命左派神奈川県委員会立ち上げ時よりの幹部となる。1969年末の川島豪議長らの逮捕以後は、獄外メンバーの事実上のリーダーとなっていった。1971年より共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、やがて統一組織連合赤軍を結成した。
山岳ベース事件における同志殺害では中心的役割を果たしたとされる。1972年2月17日、委員長の森恒夫と共に一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところを、揃って逮捕された。
(※ 山岳ベース事件での同志殺害を主導したことを自供後「身勝手な官僚主義者だった。」という自己批判書を検察に送ったというエピソードがある。)
脳腫瘍を患いながらの法廷闘争の末、1993年最高裁判所で死刑が確定。病気療養中の身であるためか確定後歴代の法務大臣は死刑執行の判を押していない。
戦後6人目の女性死刑囚である。
再審請求していたが、平成18年11月28日東京地裁が棄却する決定をした。
なお、2001年公開の映画「光の雨」では、永田役(正確には永田をモデルにした新左翼幹部)を裕木奈江が演じて話題となった。それまでの裕木のイメージから一変、非常に永田によく似ていた。
[編集] 著書
- 十六の墓標 炎と死の青春(上下2巻、彩流社、1982~1983)
- 氷解 女の自立を求めて(講談社、1983)
- 私生きてます 死刑判決と脳腫瘍を抱えて(彩流社、1986)
- 愛と命の淵に 瀬戸内寂聴・永田洋子往復書簡(福武書店、1987)
- 続十六の墓標 連合赤軍敗北から十七年(彩流社、1990)
- 獄中からの手紙 (彩流社、1993)
[編集] 関連項目
- 坂口弘 (一時、事実婚していた)
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