池田恒雄
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池田 恒雄(いけだ つねお;1911年5月3日-2002年2月9日)は、昭和・平成期のスポーツを中心としたジャーナリスト、ベースボール・マガジン社の創立者、社長、会長である。
[編集] 来歴・人物
新潟県出身。早大在学中の1931年に雑誌「野球界」の編集に携わり、雑誌編纂や野球の魅力にとりつかれていく。
戦後1946年、もとから立ち上げていた恒文社からベースボール・マガジン社を分離して創立。同時に「野球界」を引き継ぐ形で「ベースボールマガジン」を創刊した。社長でありながら記者としても活動、現場で取材を行い、精力的な出版活動を行った。1958年には「週刊ベースボール」を創刊、従来の季刊、月間ではなく、「現場の臨場感をできるだけ早く伝える」ために週刊化に踏み切った。時は長嶋茂雄が読売ジャイアンツに入団して間もない時代(ちなみに創刊号の表紙は長嶋)、野球人気は学生野球からプロ野球へと移ろうとしている時期であり、池田の先を見る目は極めて確かであったといえる。
その一方で故郷・新潟を思う気持ちは人一倍強く、恒文社の社長も兼務し、ベースボール・マガジン社が分離した後にはスポーツ関連の書籍のほか、新潟に特化した書籍・雑誌を出版する異色の出版社として耳目を集めた。また、出身地である新潟県大和町には自ら立ち上げた財団法人池田記念財団が運営する「池田記念美術館」があり、極東ユーラシア地域との交流で得た文化・スポーツに関連するコレクションが展示されている。
存命中の1989年に、雑誌記者出身者としては初めて野球殿堂入り(特別表彰)。2002年に亡くなったときには、星野仙一・阪神監督(当時)が、「プロ野球がこれほど発展する前からずっと支えてくれた人。もっと我々は弔意を示さねばならない」とコメントを残した。