河野通宣
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[編集] 河野通宣 (刑部大輔)
河野通宣(こうのみちのぶ、? - 永正16年(1519年))は、戦国時代の武将・大名。伊予河野氏の当主。河野教通の子。河野通直(弾正少弼)の父。刑部大輔。湯築城城主。
分家である予州家との対立は継続しており、一時河野通篤(下記の通宣の実の祖父、但し異説あり)に居城を追われたが、まもなく奪回している。
[編集] 河野通宣 (左京大夫)
河野通宣(こうのみちのぶ、大永2年(1522年) - 天正9年(1581年))は、戦国時代の武将・大名。伊予河野氏の当主。伊予守。左京大夫。湯築城城主。
[編集] 出生
予州家の河野通存(上記通篤の子)の子と言われてきたが近年では河野通直(弾正少弼)の実子であることが確認されつつある。1543年に河野氏の当主であった兄・河野通政が早世したため、家督を継ぐこととなった。しかし若年であったため、河野通直(弾正少弼)の後見を受けることとなる。
[編集] 人生
通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後の大友氏、土佐の長宗我部氏などの侵攻を受け、領内はまさに危機的状態にあった。通宣は中国の覇者となって勢いに乗る毛利元就と同盟を結ぶことによって、これを何とか撃退している。
しかし、相次ぐ対外の苦難や内部の家臣団の離反など、内憂外患が続いたことにショックを受けたのか、通宣は病に倒れてしまう。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居し、1581年に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる。
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