泗川の戦い
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泗川の戦い(しせんのたたかい)とは文禄・慶長の役における合戦の一つ。
泗川の戦い | |
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戦争: 慶長の役 | |
年月日: 1598年10月1日 | |
場所: 朝鮮国慶尚道泗川城 | |
結果: 明・朝鮮連合軍の壊滅的敗北 | |
交戦勢力 | |
日本島津軍 | 明・朝鮮連合軍 |
指揮官 | |
島津義弘 | 董一元 |
戦力 | |
7000人 | 37,000人~200,000人前後 |
損害 | |
200人以下 | 38,717人~80,000人前後 |
慶長3年(1598年)10月、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7000が明の武将董一元率いる数万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。圧倒的な戦力差があるにも関わらず島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、その時の明軍の数が3万7千から20万と諸説あり、明軍の死者も数千から8万とかなりの開きがある。
目次 |
[編集] 背景
豊臣秀吉が死去し、朝鮮半島に侵攻中の日本軍にも撤退命令が下っていた。しかし明と朝鮮の連合軍が黙って撤退を許すはずもなく、戦闘は継続されていた。そんな状況の中で董一元率いる呼称20万の明軍が泗川城に攻め寄せる。泗川城は船舶の運航を守るために築かれた城で、ここを落とされると退路を断たれるかたちになり、日本軍が全滅する危機にあった。この泗川城に駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7000人のみだった。
宗氏や立花氏が援軍を申し入れるが何故か義弘はこの申し出を断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つことになった。
[編集] 経過
泗川には文禄に築かれた泗川古城と、慶長の役の時に築城を開始し未完の泗川新城の二つが存在し、古城には500の兵を配置し、義弘・忠恒親子は新城に駐屯していた。
まず明軍は古城に殺到。明軍は5000の損害を出すものの多勢に無勢、守備隊も150の損害を出して古城から撤退した。古城陥落から2日後に明軍は新城を攻撃するがその最中に明軍の陣中にあった弾薬庫が爆発するという不慮の事故が起きる。鉄砲の流れ弾が火薬に当たり引火した説と島津兵が火薬庫に放火したという説があるが、事実は不明である(また爆発したのは泗川古城の食料庫で、食料庫に蓄えられていた食糧を燃やすことによって明・朝鮮軍に長期籠城戦を断念させ、短期決戦へ持ち込むために、島津軍が撤退時に爆破させたという説もある)。
いずれにせよ、明・朝鮮連合軍は混乱に陥り、その間隙を突いて島津軍は城外に打って出た。島津軍の猛烈な攻勢の前に明軍は後退するものの、1万の別働隊が城の手薄な部分を襲わせるが、別働隊の接近に気付いた島津忠長がわずか100騎でこれを迎撃。忠長は苦境に陥るが、援軍が掛けつけて迎撃に成功。義弘や忠恒も自ら刀を振るって敵兵と渡り合うほどの乱戦になるが、戦況は島津軍の優位で進み、明・朝鮮連合軍は漢城までの後退を余儀なくされた。
この結果、明・朝鮮連合軍は多くの戦死者を出し、島津軍の報告では38717人、明の報告書によれば8万余りとなっている。 この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武威は朝鮮だけでなく、明国まで響き渡った。
[編集] 勝敗の原因
明軍の敗因は短期決戦を選択した事にあると言えよう。明・朝鮮軍に比較して、島津の軍勢は1万にも満たない小勢であり、短期決戦でも勝利を収められると判断したと思われる。しかしその相手は日本一の強兵と言われる薩摩の島津兵であり、確実な勝利を期するのであれば長期籠城戦を選択し、兵糧が無くなるのを待ち、弱った島津軍を撃破するべきだった。いくら島津兵が精鋭であっても、食料が尽きれば戦うことができなかったはずである。
明軍が短期決戦を選択したのは島津軍に短期決戦に持ち込む誘いに乗せられた可能性が高い。
[編集] 戦闘の後に
もし泗川を落とされていた場合、日本軍は退路を塞がれたことになり、最悪の場合は日本軍が全滅していた可能性もある。この戦いで明軍を防いで、陸路の安全を確保したことは大きな功績となった。この功績は五大老達から高く評価されて、文禄・慶長の役唯一の加増に預かった。しかしそれ以上に重要なのは島津兵の強兵ぶりを天下に知らしめたことである。後に関が原の戦いで西軍について存続の危機に立たされたが本領安堵を勝ち取った原因の一つが泗川での戦功にあったことは言うまでもない。