湘南宗化
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湘南 宗化(しょうなん そうけ 生年不明(1586年頃) - 寛永14年(1637年))は、安土桃山時代・江戸時代の臨済宗妙心寺の僧侶。
[編集] 生涯
幼名は、拾。
近江国長浜で一粒種の長女よね(6歳)を1586年の地震で失い、気落ちしていた一豊と千代(見性院)に、よね供養の門前(家の前とする説もある)で拾われて息子同様に育てられた。実は、拾は一豊の隠し子だったとする説もある。
しかし豊臣秀次が跡継ぎ問題で切腹した文禄4年(1595年)頃に、養父一豊の命令で家を離れて出家する。血筋でない彼に継がせるのは山内家にとって問題になると考えたのであろう。
拾は京都で修行を積み、湘南宗化和尚となった。京都妙心寺に大通院があるが、湘南宗化はその妙心寺大通院の第二代住持であり、朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となった。湘南和尚の妙心寺時代の弟子(土佐吸江寺にも同行)に、後に還俗した山崎闇斎がいる。 この妙心寺大通院は以後、山内家菩提寺となり、ここに一豊夫婦の京都墓所もある。
また湘南宗化は、山内家が土佐入国後には、土佐吸江寺住職と京都妙心寺大通院住職とを兼務し、土佐慶徳山円明寺(江戸時代に焼失)の中興を行っている。
ところで、一豊は弟康豊の子忠義を山内家跡目養子にしていた。見性院は夫一豊が慶長10年(1605年)秋に亡くなると、康豊に忠義を後見させて半年後には土佐を引き払い、拾のいる妙心寺近くに移り住んで余生をずっと京都で過ごした。見性院にとっては、拾はよねの生れかわりであった。
寛永14年に妙心寺で没。墓も妙心寺。法名は湘南宗化大航普済禅師。
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