見性院
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見性院(けんしょういん)は、
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[編集] 見性院 (穴山梅雪正室)
見性院(けんしょういん、1545年(天文14年) - 1622年6月17日(元和8年5月9日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。武田信玄の次女。母は三条夫人。穴山梅雪(信君)の正室。
甲斐国に生まれる。永禄年間に武田信玄(晴信)の姉の夫に当たり、武田氏一族の穴山信友の子、穴山梅雪(信君)の正室となる。1582年(天正10年)織田信長の自刃後、徳川家康と行動を共にした信君が土一揆で殺され、続いて息子穴山信治も死去して穴山氏は断絶する。そののち徳川家康に保護されて江戸城北の丸に邸を与えられ、江戸幕府の2代将軍の徳川秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松、保科正之)を養育する。
なお、夫・信君が武田氏の滅亡間際に織田方に寝返った理由として、見性院が異母弟である武田勝頼の武田氏相続に不満を抱いて我が子・信治を武田氏当主に擁立するように夫に勧めたからだともいわれているが、確証はない。
[編集] 関連項目
[編集] 見性院 (山内一豊の妻)
見性院(けんしょういん、1557年(弘治3年)- 1617年12月31日(元和3年12月4日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。土佐国高知藩主となる山内一豊の正室。名は千代ともまつともいわれるが不詳。ただ、最も有力な説は「千代」なので、NHKの大河ドラマ功名が辻では、「千代」となった。(女優の仲間由紀恵が見性院を演じた。)
[編集] 出自
出自は諸説あり、浅井氏家臣の若宮喜助友興の子とも、美濃の郡上八幡城主の東家系・遠藤氏(東家先祖は和歌家)の遠藤盛数の子とも言われてきた。しかし、最近は遠藤盛数の子説が有力になってきている。
父が遠藤盛数(1562年死去)とすれば、母は東常慶の娘で、兄は後に八幡藩主になる遠藤慶隆。 しかし、千代(まつ)の幼時は戦に明け暮れる日々で、母(1582年死去)とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。
山内家には「東常縁筆古今集」はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが、死去に当たり、養子の土佐藩主山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。また見性院が、遠藤盛数の孫遠藤安右衛門亮胤を山内家に仕官させるよう言い残したことも、遠藤盛数の子説の根拠である。
[編集] 内助の功
嫁入りの持参金、または臍繰りで名馬を購入した話や、俎板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名である。歴史上においては、関ヶ原の戦いの前哨戦において三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」が有名である。
千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は、江戸時代中期の新井白石の『藩瀚譜』や室鳩巣の『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。
一豊と千代のエピソードは、戦前においては賢妻のモデルとして多く取り上げられた。戦後では小説やドラマの題材となっている。千代を題材とした作品は、山内一豊#山内一豊を題材とした作品を参照のこと。
[編集] 子と余生
山内一豊との間には娘(与祢姫)が一人生まれたが、天災(天正大地震)により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。
山内一豊は弟山内康豊の子忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。見性院は夫一豊が1605年秋に亡くなると、康豊に忠義を後見させて半年後には土佐を引き払ってしまい、湘南宗化のいる妙心寺近くに移り住んで余生を京都で過ごした。
1617年(元和3年)京都で死去。墓所は高知県高知市の山内家墓所。京都妙心寺にも山内一豊夫妻の廟所がある。