湯口敏彦
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湯口敏彦(ゆぐち としひこ、1952年6月3日 - 1973年3月22日)は、昭和後期(1970年代前半)の読売ジャイアンツに所属していた左腕投手(背番号19)。岐阜県郡上郡白鳥町(現在の岐阜県郡上市)出身。
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[編集] 経歴
- 岐阜短期大学付属高校(現在の岐阜第一高校)のエースとして1970年春と夏の甲子園に出場。春はベスト8、夏はベスト4まで勝ち上がった。また、高校時代にノーヒットノーランを3回達成(うち完全試合1回)。当時、同学年で活躍した和歌山・箕島高校の島本講平投手、広島・広陵高校の佐伯和司投手と合わせて「三羽ガラス」と呼ばれた。
- 同年秋のドラフトで、読売ジャイアンツに1位で指名され、翌1971年に入団。しかし1971年、1972年と一軍での登板はなし。
- 1972年11月に行われたファン感謝デーの紅白戦でリリーフ登板するが、前日に参加した無礼講の飲み会に参加した余韻のせいか、一本も打てず逆に打ち込まれ、川上哲治・中尾碩志両監督から厳しい叱責を受けたと言われている。これによって精神的に大打撃を受け、直後に行われた納会で大騒ぎとなる。数日後、医師からうつ病と診断され、その後2度の入退院を繰り返す。しばしば「川上監督に申し訳ないことをした」と紅白戦のことを思い出しては悔やんでいたという。
- 翌1973年初めに病状が改善し、同年2月にに宮崎県都城で行われた2軍キャンプに参加。しかし、キャンプ初日に再び精神的な異変が現れ、翌日には監督から参加禁止を言い渡され、東京への帰還を命じられる。到着直後の羽田空港内で症状が悪化したため病院に再入院し、治療を受けていたが同年3月22日に急逝した。
[編集] エピソード
- 突然の死とそれまでの経緯から、現在(2007年)でも「彼は自殺した」というのが通説となっている。
- 彼の葬儀には監督、コーチ、選手は一切出席できず、球団関係者が数名参列したのみであった。さらに当時の川上監督は「巨人こそ大被害を被った。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手。せめてもの救いは、女を乗せての交通事故でなかった事だ」と、湯口への侮辱にもとれる発言をする。この一件は「湯口事件」として語られるプロ野球史のタブーともいえる事件となっている。
- この事件の影響からか、1973年ドラフトで巨人は、1位指名から3位指名まで全員入団拒否と言う前代未聞の事態を招いた。この年以来長い間ドラフト1位で「高卒左腕投手」を指名していなかったが、2005年ドラフトで分離ドラフトが導入。高校生一位指名に高校生左腕No.1の呼び声が高い辻内崇伸を指名している。
[編集] 参考文献
- 織田淳太郎著『巨人軍に葬られた男たち』(新潮社)