川上哲治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川上 哲治(かわかみ てつはる、1920年3月23日 - )は、熊本県球磨郡大村(現人吉市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。左投げ左打ち。
現役時代から「野球の神様」と言われ、また監督としては読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、V9(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成した。愛称は「打撃の神様」、「哲」、「ドン川上」。現役では最高齢のプロ野球解説者(NHK)であり、その長寿ぶりから最近では「球界の森繁久彌」と呼ぶ声も。
妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年~1944年)。
目次 |
[編集] 来歴・人物
元は右投げ右打ち。5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。経過が悪く完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていた。その後暫くは左投げ右打ち。
熊本県立工業学校(現・熊本工業高等学校)2年生の4月から左打ちに転向した。熊本工の投手として吉原正喜(捕手)とのバッテリーが評判となり、1934年・1937年夏の全国中等学校野球選手権大会へ2度出場し、いずれも準優勝する。また選抜中等学校野球大会にも1936年春に1回出場している。
1938年に東京巨人軍に入団。吉原、千葉茂(後の近鉄監督)らと「花の昭和13年組」として注目を集めた。入団当初は投手であり1939年には開幕投手も務めたが、特にバッティングの方を買われ登板がないときには一塁手として出場した。「投手で4番」の先発出場を3回記録している。その後徴兵され出征し、内地で敗戦を迎える。
戦後一時は郷里で農業に従事し巨人への復帰を拒否したが、ボーナス(事実上の再契約金)などの条件で1946年6月に合流。その後は野手に専念。赤色に塗ったバットを使い「赤バットの川上」として人気を集め、戦後のプロ野球復興に一役買った。「弾丸ライナー」「打撃の神様」などが彼の代名詞。また現役晩年は「弾丸ライナー」と称された打球の鋭さは衰えたが、内野手と外野手の間に落ちる、いわゆる「テキサスリーガーズ・ヒット」を多く放ち「テキサスの哲」とも呼ばれるようになった。
1951年に記録した打率.377は、1986年にランディ・バース(阪神)が.3885を記録して塗り替えるまでセ・リーグ記録であり続けた。同年、規定打席到達者による年間三振6の最少三振タイ記録。「ボールが止まって見えた」(実際は当時松竹ロビンスの小鶴誠の発言)という名言を残したとされるのもこの年である。これは小鶴の言葉を報知新聞の記者が川上の言葉に捏造して発表したものである。川上自身は電車に乗りながら枕木の数を数えたというエピソードだったと答えている。他にも、本塁打はどうやったら打てるか、という質問に対して「ボールを3分割して、下から1/3の点を強打すれば、本塁打の確率が増える」と答えたと言われている。
このように打撃では超一流の実力を示したが守備は苦手であり、二塁手の千葉がカバーを強いられることが多かった。1956年5月31日対中日戦(中日球場)で史上初の2000本安打達成。1958年シーズン限りで現役引退。現役時代の背番号「16」は巨人3つ目の永久欠番となった。
1951年からコーチ兼任、引退に伴い1959年より水原茂監督の下でヘッドコーチ。1961年、水原監督の勇退を受け監督昇格。他球団OBの牧野茂、荒川博をコーチに招き、アメリカメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースの戦法を取り入れた堅実なチーム戦術で監督として指揮を振るった。14年間に1965年~1973年のV9を含む全11回(他1961年、1963年)のセ・リーグ優勝を成し、それを全て日本一に導く。その為、高度経済成長時代の管理職のバイブルとなるほど日本野球史上最高の名指揮官との呼び声も高いが、一方で独断専行振りに対する批判も少なくなかった(この点は後述)。1974年限りで勇退し長嶋茂雄(現・終身名誉監督)にバトンタッチした。
現役時代監督であった藤本定義が阪神の監督に就任すると、阪神ベンチ前に呼び出され、万座の前で采配を非難されたという。吉田義男などは試合中に藤本のマネをして「おい哲、しっかりせえ」と野次を飛ばした。そのため駐車場で川上に追い回されとび蹴りを食らったという。
その後は1976年からNHKの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家となる。最近ではJ SPORTS STADIUMに特別ゲスト解説で出演することがある。1965年に野球殿堂入り。1999年3月17日、生誕地の熊本県人吉市に川上哲治記念球場完成。(川上哲治記念球場・人吉市ホームページ内)川上は監督としては水原が成し遂げられなかったV6(最終的にはV9)を達成した名将となったが、後年は鶴岡一人とともに球界に強い影響力を持ったことから「ドン川上」といわれるようになった。勇退後の1992年、球界初の文化功労者に選ばれた。
[編集] タイトル・表彰・記録
- MVP 3回(1941年、1951年、1955年)
- 首位打者 5回(1939年、1941年、1951年、1953年、1955年)
- 本塁打王 2回(1940年、1948年)
- 打点王 3回(1939年、1941年、1955年)
- ベストナイン 10回(1940年、1947年~1949年、1951年、1953年、1955年~1958年)
- 日本シリーズMVP 1回(1953年)
- 1646試合目で通算2000本安打達成(1956年5月31日 史上最速記録)
- サイクルヒット 1回(1954年7月25日)
- 9打数連続安打(1939年4月9日~9月11日)
- 1試合3三塁打(1939年6月21日 日本タイ記録)
- 10試合連続打点(1949年4月3日~4月14日)
- 1イニング2本塁打(1948年5月16日)
- シーズン三振数6(1951年 最少三振日本タイ記録)
- オールスター出場 7回(1951年~1954年、1956年~1958年)
- オールスターMVP 1回(1951年第1戦)
[編集] 年度別打撃成績
年度 | 試合 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 長打率 | 所属 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1938(昭和13)年春 | 23 | 35 | 7 | 0 | 7 | 2 | 0 | 3 | 0 | 1 | .200 | .200 | 巨人 |
1938(昭和13)年秋 | 39 | 133 | 35 | 3 | 53 | 24 | 2 | 20 | 0 | 16 | .263 | .398 | |
1939(昭和14)年 | 94 | 343 | 116 | 4 | 169 | 75 | 8 | 37 | 1 | 19 | .338 | .493 | |
1940(昭和15)年 | 104 | 392 | 122 | 9 | 190 | 66 | 7 | 50 | 0 | 27 | .311 | .485 | |
1941(昭和16)年 | 86 | 339 | 105 | 4 | 156 | 57 | 5 | 46 | 2 | 21 | .310 | .460 | |
1942(昭和17)年 | 72 | 274 | 73 | 3 | 95 | 27 | 5 | 46 | 1 | 18 | .266 | .347 | |
1946(昭和21)年 | 70 | 279 | 85 | 10 | 143 | 67 | 2 | 38 | 0 | 13 | .305 | .513 | |
1947(昭和22)年 | 119 | 443 | 137 | 6 | 199 | 57 | 16 | 65 | 2 | 17 | .309 | .449 | |
1948(昭和23)年 | 135 | 504 | 150 | 25 | 263 | 105 | 12 | 58 | 4 | 26 | .298 | .522 | |
1949(昭和24)年 | 134 | 545 | 180 | 24 | 308 | 129 | 9 | 49 | 2 | 24 | .330 | .565 | |
1950(昭和25)年 | 138 | 559 | 175 | 29 | 308 | 119 | 34 | 56 | 4 | 29 | .313 | .551 | |
1951(昭和26)年 | 97 | 374 | 141 | 15 | 217 | 81 | 14 | 48 | 2 | 6 | .377 | .580 | |
1952(昭和27)年 | 118 | 478 | 153 | 4 | 201 | 82 | 15 | 42 | 2 | 21 | .320 | .421 | |
1953(昭和28)年 | 121 | 467 | 162 | 6 | 218 | 77 | 22 | 44 | 7 | 14 | .347 | .467 | |
1954(昭和29)年 | 129 | 510 | 164 | 8 | 231 | 87 | 26 | 41 | 2 | 25 | .322 | .453 | |
1955(昭和30)年 | 120 | 435 | 147 | 12 | 200 | 79 | 17 | 69 | 3 | 33 | .338 | .460 | |
1956(昭和31)年 | 128 | 490 | 160 | 5 | 206 | 67 | 16 | 46 | 3 | 36 | .327 | .420 | |
1957(昭和32)年 | 128 | 465 | 132 | 5 | 179 | 52 | 6 | 40 | 4 | 37 | .284 | .385 | |
1958(昭和33)年 | 124 | 435 | 107 | 9 | 157 | 66 | 4 | 25 | 5 | 39 | .246 | .361 | |
通算 | 1979 | 7500 | 2351 | 181 | 3500 | 1319 | 220 | 824 | 43 | 422 | .313 | .467 |
[編集] 投手成績
- 39試合 11勝9敗 防御率2.61
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961年 | 昭和36年 | 1位 | 130 | 71 | 53 | 6 | .569 | (1) | 89 | .227 | 2.50 | 41歳 | 巨人 |
1962年 | 昭和37年 | 4位 | 134 | 67 | 63 | 4 | .515 | 8 | 102 | .232 | 2.47 | 42歳 | |
1963年 | 昭和38年 | 1位 | 140 | 83 | 55 | 2 | .601 | (2.5) | 143 | .247 | 2.57 | 43歳 | |
1964年 | 昭和39年 | 3位 | 140 | 71 | 69 | 0 | .507 | 11 | 147 | .235 | 3.01 | 44歳 | |
1965年 | 昭和40年 | 1位 | 140 | 91 | 47 | 2 | .659 | (13) | 106 | .246 | 2.54 | 45歳 | |
1966年 | 昭和41年 | 1位 | 134 | 89 | 41 | 4 | .685 | (13) | 114 | .243 | 2.24 | 46歳 | |
1967年 | 昭和42年 | 1位 | 134 | 84 | 46 | 4 | .646 | (12) | 162 | .265 | 2.87 | 47歳 | |
1968年 | 昭和43年 | 1位 | 134 | 77 | 53 | 4 | .592 | (5) | 177 | .262 | 3.35 | 48歳 | |
1969年 | 昭和44年 | 1位 | 130 | 73 | 51 | 6 | .589 | (6.5) | 147 | .263 | 3.30 | 49歳 | |
1970年 | 昭和45年 | 1位 | 130 | 79 | 47 | 4 | .627 | (2) | 131 | .240 | 2.46 | 50歳 | |
1971年 | 昭和46年 | 1位 | 130 | 70 | 52 | 8 | .574 | (6.5) | 123 | .253 | 2.94 | 51歳 | |
1972年 | 昭和47年 | 1位 | 130 | 74 | 52 | 4 | .587 | (3.5) | 158 | .254 | 3.43 | 52歳 | |
1973年 | 昭和48年 | 1位 | 130 | 66 | 60 | 4 | .524 | (0.5) | 149 | .253 | 3.25 | 53歳 | |
1974年 | 昭和49年 | 2位 | 130 | 71 | 50 | 9 | .587 | 0 | 159 | .253 | 3.05 | 54歳 |
[編集] 監督通算成績
- 1866試合 1066勝739敗61分 勝率.591
- 日本一11回、セ・リーグ優勝11回
[編集] 背番号
- 16(1938年~1964年)
- 77(1965年~1974年)
[編集] 著書・参考文献
- V9の闘魂―巨人軍の鬼といわれて(1983年1月・ベースボール・マガジン社) ISBN 4583023502
- 常勝の発想―宮本武蔵『五輪書』を読む(1984年1月・講談社) ISBN 406200951X
- 悪の管理学―可愛い部下を最大限に鍛える(1984年10月・光文社文庫) ISBN 4334700314
- 勝機は心眼にあり―球禅一如の野球道(1991年5月・ベースボール・マガジン社) ISBN 4583028911
- 川上哲治の坐禅入門―自分に勝ち、組織に勝ち、敵に勝つ(1992年8月・ごま書房) ISBN 4341015176
- 監督の条件(1995年7月・読売新聞社) ISBN 4643950706
- 勝つために必要な五つの方法―V9監督川上哲治が語る「勝利の極意」(1997年6月・ごま書房)ISBN 4341171321
- 遺言(2001年5月・文藝春秋)ISBN 4163576606
- ゴルフ狂、川上哲治 打撃の神様ゴルフ歴半世紀の結論(2006年9月・ゴルフダイジェスト社)ISBN 4-7728-4068-0
- 覇道をゆく―川上哲治の戦中戦後(木村勝美著・1987年4月・光人社)ISBN 4769803400
- 父の背番号は16だった(川上貴光著・1991年3月・朝日新聞社) ISBN 4022562765
[編集] エピソード
- 1937年の全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)に出場(準決勝・この大会の優勝校は野口二郎を擁した中京商業学校)した時、決勝戦終了後に甲子園球場の土をユニフォームのポケットに入れ、母校のグラウンドに撒いた。高校野球の敗者が甲子園の土を持ち帰るのは、これが起こりだと言われている。
- 入団当時は投手として登録されていたが球威がなかったため出番が少なく熊本工業学校時代の同僚吉原正喜捕手が開幕早々スタメン出場しているのを見て「早く打撃に専念すればいいが…」と悶々としていた。しかしその年の北海道遠征で当時の正一塁手永沢富士雄がケガでスタメン落ち。急遽一塁手として出場したゲームで3安打の活躍を見せると藤本定義監督から「ファーストミットを用意せよ」と言い渡された。川上は「これで好きな打撃に専念できる。」と内心大喜び。以降一塁手として定着するが応召前年の1941年までは投手も兼業していた。ちなみに投手としての成績は11勝9敗である。
- 低く鋭い打球を飛ばす打撃スタイルから、日本の野球評論の草分けである大和球士は川上の鋭い打球を『弾丸ライナー』と名付けた。これが、弾丸ライナーという言葉の起こりである。
- 反面「重戦車」とあだ名されるほど足が遅かったが、1947年からは投手のクセを盗んだりバッテリーの隙を突いたりという努力で足の遅さを補い、以前とは別人のように、スキあらば盗塁を仕掛けるようになった。通算220盗塁は、今も巨人軍歴代3位の記録である。
- 口の悪さは現役時代から有名で、「チームの事より自分の成績の方が大事」と公言するなどかなり自己中心的でチーム内では嫌われ者であった。この口下手ぶりは監督就任後も残り、たまに発言してもフォローしてコメントする事すら知らないものになってしまって反感を買う事は日常茶飯事だった。例を挙げれば、
-
- 1960年オフに与那嶺要・土屋正孝をトレードで放出したのは「前者は自身のライバルで後者は私的に相容れられない(土屋は「眠狂四郎」と渾名されたほどの無頼漢だった)性質だから」と言い、トレードの私物化と批判された。
- 1962年に前年限りで現役を引退しヘッドコーチ専任となった別所毅彦が、名古屋市の定宿で深夜飲酒をしていた中村稔を鉄拳制裁した件で退団に至ったのは「参謀役を牧野茂に切り替えるための陰謀」と公言している(しかし、川上は辞任した別所の将来を心配して野球解説者の仕事を見つけた)。
- 1964年に広岡達朗のトレードを画策し実現寸前の所まで追い詰めた(結局、広岡本人が正力松太郎と長男の正力亨に直訴したため実現に至らず)のは「広岡がメディアで監督批判を行ったための仕返し」と噂された。(結果広岡はV9メンバーに名を連ねることができたが、引退後川上からキャンプ取材を拒絶されるという形で報復を受けてしまう。詳しくは広岡の著書を参照)
- という具合にマスコミからはその独断専行振りに批判が多かった。こうした非難に対しても「やがてはわかってくれるだろう」との考えから黙まりを決め込むのが定番になっていて、湯口事件で読売系以外のマスコミからの批判が噴出。チームの士気低下にもつながり監督勇退の一因となった。
- 長嶋との対立は世間の注目を浴び、バラエティ番組などでも扱われた。その中でも、当時はサラリーマンだったドン川上は、長嶋の物真似をするプリティ長嶋とのコンビが好評を博し、シングル「来たかチョーさん、待ってたドン」を発売した。その後、ドン川上はサラリーマンを辞め、芸能界に転身した。
- 2000本安打達成者であるが、名球会の入資格条件「昭和以降の生まれ」に該当しない。ただし、名誉会員資格がある。
- 1500本・2000本安打の到達試合数は、2006年現在もなお日本プロ野球最速記録である(日米通算ではいずれもイチローが上回る)。
- 無愛想で口下手な性格のためマスコミとは現役時代から折り合いが悪く、川上が監督時代に練習に集中させるために報道規制を行った時は「哲のカーテン」などと悪意的に揶揄された。また、生来の口下手に加え、何事にも熱中する凝り性な性格と「肥後もっこす」と称される頑固で妥協しない性格だったため、周囲と衝突することも多く、現役時代の千葉(後の近鉄監督)、与那嶺要(後の中日監督)、広岡達朗(後のヤクルト、西武監督)とは犬猿の仲であったといわれる。広岡とは後に和睦したが、与那嶺は川上との過去の確執から巨人のOB会に参加していない。
- ちなみに川上と広岡の確執だが、1964年8月6日の国鉄戦(神宮)において、広岡の打席の時三塁にいた長嶋が独断でホームスチールを試みて失敗したにも関わらず、巨人ベンチが特にそれをとがめようとしなかったことから「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と当時の川上監督に噛み付いたことが原因とされている(※詳しくは広岡の著書を参照)。
- 周囲の悪評を気にしていないというイメージで見られていたが、内心はそうでもなかったようである。特にV9の後半(1970年以降)、自らが率いるチームが優勝したにも関わらず「川上の野球はつまらない」「三原脩の爪のアカでも煎じて飲め!!」とこき下ろされるのを見て、「何で私の率いるチームが勝つだけで悪く言われるのだろう。私はファンの期待にこたえているだけなのに」と悶々としていたと、後に本人が明かしている。
- 監督最後の年となった1974年7月9日の大洋戦で生涯唯一の退場処分を受ける(詳しくは平松政次、平光清を参照)。
- 阪神の星野仙一シニアディレクターが師と仰ぎ、それにあやかって川上の巨人監督時代の背番号77をつけていたという話は有名。ちなみに川上自身が77番をつけた理由は、息子が当時の人気番組「サンセット77」のファンだったからだという。
- 自身の後を継いだ長嶋が1980年に巨人の監督を解任された際、巨人信者として知られる日本テレビの徳光アナがズームイン!!朝!で長嶋の解任について激怒するとともに川上を痛烈に批判した(この時の解任劇には川上が関与したと言われているが、著書の中で彼は強く否定している)。このため、徳光の怒りに触れた最初の野球人という不名誉な称号をつけられることとなった。
- 「オレ流」と称され、マスコミや球界OBから何かと風当たりの強い中日ドラゴンズの落合博満監督の数少ない理解者の1人である。落合が2004年の監督就任直後に沖縄で行った春季キャンプには、老齢の体を押して視察に訪れ、「落合君は日本のプロ野球に革命を起こそうとしている」と絶賛していた。
- 球界OBの中でも大のゴルフ好きとして知られ、日本レフティーゴルフ協会(左利きゴルファーの同好会)の名誉会長を務めている(以前は会長だった。川上後の会長職には国松彰が務めている)。現在は週刊ゴルフダイジェストでコラム「日々、ゴルフ惚け」を連載中である。2007年2月23日、日本プロゴルフ協会から、小林旭、羽佐間正雄らとともに名誉会員に認定された。
- 俳優の丹波哲郎や作家の虫明亜呂無はかつて川上が旧日本軍の立川航空隊の教官だった当時の部下である。しかし、丹波は鉄拳制裁を受けたことがあり、著書の中で「川上さんだけは絶対に許せない」、「実像と虚像の落差が激しい人物であったので部下にも人気がなかった」と語っている。また、虫明は制裁には遭わなかったものの「川上さんほど鮮やかに空中に人物を浮かせた人物を知らない」「川上さんは上に対して弱く、下に対して、ものすごく強い。組織のなかの人間の典型だった。」と記している。
- また巨人監督時代、長嶋が石原裕次郎と飲み歩いていた途中で怪我をしてしまい、川上は「落ち目の役者がうち(巨人)の選手を連れ歩いている」などと裕次郎を非難、このため裕次郎の実兄石原慎太郎から徹底的に嫌われることになり、「プロ野球をだめにした張本人」「偽善者」などと批判されることになる。また、湯口事件でも、男性向けの総合週刊誌は連載小説等で石原と関係が深かったことから、石原の意を汲み川上批判のキャンペーンを展開した。
- 新しい歴史教科書をつくる会賛同者。
- くりぃむしちゅーの上田晋也は、「川上哲治に野球を教えたのは、自分の祖父だ。」と言っている。
- 「球界の森繁久彌」とその長寿から称されているが、その他の理由に最近の森繁久彌同様、最近公式の場に出てくるのが著名人(球界関係者)の葬式の場ばかりだからという理由もある。
- 真偽は定かではないが、長嶋が巨人に入団した際に彼に背番号15番を着けるよう勧めた、という伝説がある。そうすれば巨人軍の永久欠番が14(沢村栄治)、15、16(川上)、と三つ並ぶから、と。早くから長嶋の資質を見抜いていた、というエピソードであろう。
- 阪神大震災の起こった1995年、「政治にフェアプレーを!」をキャッチフレーズに「さわやか国民会議」を設立。さらにそれを母体に「さわやか新党」を結成、政界進出を図ったが当選者を出せず、大きな動きとはならなかった。
- 1995年の日本シリーズ解説の際、オリックス・ブルーウェーブに所属していたD・Jのことをデイジーと読んでいた。
- 2006年現在、生存している戦前のプロ野球に在籍していた選手は、川上の他に岩本義行、前川八郎、宮崎剛、野口二郎、鬼頭政一らごく限られた数になってしまった。そのため、今現在で沢村栄治及びヴィクトル・スタルヒンの全盛期を本当の意味で知っていて証言できるのは、チームメイトであった川上だけといえる(前川八郎は川上よりも先輩の巨人OBであるが公の場に出なくなって久しい)。沢村、スタルヒン共に剛速球投手として知られており、現在でもそのスピードについて議論されることが多い。その議論の場によく出てくるのは専ら沢村の方であるが、千葉茂(2002年没)と川上は共に「スタルヒンのほうが球は速かった、160km/h出ていたはずだ」という見解で一致している。
- さらに、川上は「スタルヒンの横で投げると、自分の方が球が遅く見えるので、スタルヒンと一緒に投球練習するのを沢村は嫌がっていた」と証言している。ならば、なぜ世間的には沢村の方が評価されているかというと、スタルヒンは戦争を生き延びて戦後のプロ野球でも活躍したが、敵性人種として抑留されていた影響で、スタルヒンは戦後にはもう全盛期を過ぎており、衰えたスタルヒンを見たことがある人の方が多いためで、その上全盛期のスタルヒンの映像が残っていない(沢村の映像は残っている)ことが影響している。
- 代名詞となっている「赤バット」であるが、戦前のある日川上の元にやってきた野球道具メーカーの社員が、「バットの色は何色にしますか?」といってきたのに対し、川上が冗談で「それでは赤にしよう」というと、本当に赤いバットが川上の元に届けられた。川上が試しに使ってみると非常にバッティングの調子が良かったという。このときは約1ヶ月ほどしか使用しなかったのだが、戦後プロ野球の復興の際、ファンサービス目的もあり、再び使い始めた。また、「ベースボールマガジン」誌によれば、メーカー側が(バットの向こうにボールを通さないと言う意味で)赤信号と引っかけたとのこと。
- V9時代のユニフォームは1961年、川上の監督就任とともに登場し、川上が勇退する1974年までの14年間の長きにわり使用された(川上監督勇退後は廃止されるが、1981年にV9時代のスタイルが復活。ホーム用が2度のマイナーチェンジを挟んで1992年まで、ビジター用が1986年のマイナーチェンジを挟んで1992年まで使用された)。
[編集] 川上哲治を演じた俳優
- 牧真介
[編集] 代々木ゆかりを演じた女優
[編集] 関連項目
|
|
|
- ※カッコ内は監督在任期間。