源義高
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源 義高(源 義仲の子)(みなもとのよしたか、承安3年(1173年)? - 元暦元年4月26日(1184年6月6日))は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。源義仲の子。清水冠者(志水冠者)と号す。木曽 義高とも。
1183年、源頼朝と対立していた志田義広と新宮行家が義仲のもとに身を寄せた。3月、頼朝は10万余騎で信濃に出陣。頼朝と義仲の和議が成立し、義高は頼朝の長女大姫の婿という名目で人質として鎌倉へ下った。 同年7月、源義仲は平氏を破って入京する。しかし、義仲は京を治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は義仲追討を決して、源範頼、源義経を出陣させる。1184年1月、義仲は宇治川の合戦で敗れ、近江粟津で討たれた。
父義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日、頼朝が義高を謀殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高は海野小太郎氏幸を身替わりに鎌倉を脱出する。しかし、4月24日に武蔵国で追手に捕らえられ、入間川原で堀親家の郎従藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は婿の義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、頼朝に迫り、藤内光澄は打ち首にされた。
源 義高(源 義忠の子) (みなもとのよしたか、生没年不詳)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む武将。源義忠の次男。
源義忠が暗殺されると、母方の平家で育てられた。左兵衛尉、左馬允、兵庫助などを歴任し、ついに官位は父を凌ぎ、従四位下左兵衛権佐にまでなった。そのため、当時の史料では源氏の棟梁を自負していたともされる。
兄に源経国(河内源太経国)がいるが、経国が関東に下ったのに対し、源義高は都に住し、平家が勢力を強めるに従って順調な官途を進んだ。
子に、従五位上河内守源義成がいる。
実質的に源義忠の系統の嫡流は兄の経国にかわり、源義高の子孫が継承する。義高の子孫は代々北面の武士で河内国に領地を持つ武士として続いた。