溝口直養
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溝口 直養(みぞぐち なおやす、元文元年11月23日(1736年12月24日) - 寛政9年7月26日[1](1797年8月18日))は江戸時代の大名。越後国新発田藩の第8代藩主。7代藩主溝口直温の長男(庶子)。幼名は亀次郎。通称は主膳。諱ははじめ直範、のち直養と改める。官位は従五位下。主膳正。浩軒と号す。母は側室美代(御長屋様。森氏)。正室は迎えなかったが数名の側室が居た。
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[編集] 経歴
元文元年(1736年)に生まれる。父直温の長子であったが、庶子のため当初は世子とされなかった。しかし弟で世子の亀之助(溝口直経)が病身のため宝暦10年(1760年)に廃嫡となると、これに代わって世子となり、徳川家治に拝謁。同年従五位下主膳正に叙任する。翌11年(1761年)直温の隠居により家督を継ぎ、8代藩主となった。同13年(1763年)には、前代に幕府領から新発田藩領となった村々のうち34か村1万9700石余を上知され、代地として旧領の43か村が返還された。明和元年(1764年)には神奈川宿において朝鮮使節の接待役を勤める。同3年(1766年)には甲州川々の手伝い普請を勤める。安永6年(1777年)には前代に藩領となった村々のうちさらに39か村1万1500石余が上知され、代地として旧領の33か村が返還された。
天明6年(1786年)閏10月6日、病身を理由に隠居し、養子・溝口直信の長男・溝口直侯に家督を譲った。但し直侯は幼少であったため、直養は隠居後もしばらくは後見をおこなった。寛政9年(1797年)7月26日、江戸において62歳で歿。法号は永照霊光院(霊光院殿前典膳郎寂室永照大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬る。
[編集] 子女
直養は生涯正室を迎えなかったが、側室の子と養子・養女を含めて4男9女があった。[2]
- 養子溝口直信は7代藩主溝口直温の六男で直養の弟。先代藩主直温の正室(清涼院)の子であることも配慮されて、直養が家督を継いだ宝暦11年にその養子となり、世子となった。しかし家督を継ぐ以前の天明6年7月12日に、31歳で父に先立って死去した。
- 長男熊次郎は一族の旗本逸見副長の養子となり、逸見長祥と称した。
- 次男峯次郎は部屋住みのまま若年で一生を終えた。
- 三男永之進も部屋住みで、のちに1000石の知行を給された。
- 長女良姫は陸奥八戸藩主・南部信房正室。
- 次女藤姫は早世。
- 三女久姫は早世。
- 四女邦姫は早世。
- 五女鶴姫(のち八重姫と改名)は安房北条藩主・水野忠韶継室。
- 六女籌姫は備中生坂藩(岡山新田藩)主・池田政恭正室。
- 七女敏姫(のち美寿姫と改名)は伊勢津藩主藤堂高嶷世子・藤堂高崧正室。
- 八女静姫は早世。
- 養女園姫は一族の旗本池之端溝口家の当主溝口直之の娘。直養の養女となり、信濃須坂藩主堀直郷正室となる。
[編集] 治世・人物
直養は当初部屋住みの身であったこともあり比較的自由な立場で若年期を送った。とりわけ学問に傾倒し、稲葉迂斎らに学んで山崎闇斎の学派(崎門)の影響を強く受けた。家督後はこうした学問上の理念に基づいて積極的な政治を行い、その治世は「安永の治」とも称され、また直養自身も新発田藩中興の英主と讃えられるまでに至った。
直養はまず財政改革に力を注いだ。以前から続く財政難は危機的な状況になっており、直養は勝手方の家老を交代させて、徹底的な財政改革を求めた。この時期にも接待役・普請役の負担や目黒行人坂大火での上屋敷類焼などにより出費は多かったが、徹底した倹約と、領内に課した御用金などによってこれを乗り切り、家臣よりの借り上げ米を一部割り返すことが可能になるまでになった。
一方、こうした財政再建のための負担転嫁もあって窮乏しつつあった農村の救済のためには、雑税である万雑(まんぞう)の改革や、実情に応じた土地調査(地改め)、また社倉設置をはじめとした飢饉対策などが行われた。また、家中や領内を対象にした法令の改定・整備も行われた。
直養の治世で最も注目されるのが学問奨励の政策である。直養自身が前述したように好学の大名であり、『勧学筆記』などの著書もある人物であった。藩内にも学問を広く奨励し、安永元年(1772年)には藩校(「講堂」のちに「道学堂」と名付けられる)が設立された。また領内の庶民教育のために、百姓・町人の好学の者を「社講」に任じて町や村で講義をさせた。さらに直養の著作『勧学筆記』や四書五経などを印刷して領内に配布することも行われた。また「医学館」を設立して医学教育を行い、さらに施薬方を置いて貧しい庶民への医療を担わせた。このほか儒教の理念に基づく祖先祭祀のために祠堂(「奉先堂」)を設け、歴代の藩主を祀った。藩の正史といえる「御記録」の編纂がはじまったのもこの時代である。 [3]
[編集] 脚注
- ^ 『寛政重修諸家譜』では閏7月1日歿とするが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。幕府への届け出が閏7月1日付だった可能性がある。
- ^ 上記「御記録」による。『寛政重修諸家譜』では早世した女子を除いて四男七女とする。また、この他に誕生して即日に亡くなった男子が二人居たとも伝える。
- ^ 以上この節の典拠は『新発田市史』上巻
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